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Consultant267号

首都東京のビル群に囲まれる日比谷公園第65回東京の洋風化を支えた「日比谷公園」東京都・千代田区大日本コンサルタント株式会社/総務部/総務室-遠藤徹也/ENDO Tetsuya(会誌編集専門委員)■首都東京の中央公園日比谷公園は、北は皇居外苑、西は霞が関の官庁街に接し、有楽町や銀座にも程近い。まさに首都東京の中心部に位置する公園である。ほぼ長方形で16ha程の敷地は中央公園としては決して大きくないが、園内には高木約3,100本、低木約10,100本が生い茂り、花壇、草地広場、池、大噴水、テニスコート、公会堂、野外音楽堂、図書館など数多くの施設を配している。都心とは思えない程の落ち着いた佇まいとその立地故、昼時には多くの会社員が憩いの場として利用している。日比谷公園の開園は1903(明治36)年で、100年以上の歴史を有する日本初の洋風公園であると同時に、全国の都市公園のモデルとしての役割を果たしてきた。この公園は東京市区改正設計に基づき、陸軍の練兵場跡地を公園として整備したのが始まりである。なぜ、この地に日比谷公園が誕生することになったのだろうか。■日本の公園造成の歴史そもそも、日本における公園制度は1873(明治6)年の太政官布告第16号が始まりで、府県に対し、公園という制度を発足させるのでふさわしい土地を選定の上、伺い出るよう通達が出された。そこで、当時の東京府は、浅草の浅草寺、上野の寛永寺、芝の増上寺、深川の富岡八幡社、王子の飛鳥山を上申し、5つの公園が誕生した。この制度では、群衆遊観の場所、万人偕楽の地を公園の主な機能としていたが、これらの遊園機能は既に江戸時代の社会に定着していた。つまり、明治維新後の公園は、伝統的な寺社の境内の転用によって誕生しており、既にあった賑わいの場所を公園と見做したこれらの公園と、都市計画の一部としてゼロから整備された日比谷公園とでは、誕生の経緯は大きく違うものであった。日比谷公園が都市公園のモデルとして位置付けられる理由はそこにある。044Civil Engineering Consultant VOL.267 April 2015