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写真1 ?第二花壇より東側を望む。正面左のビルは帝国ホテル、右のガラス張りのビルが建つ場所にはかつて鹿鳴館があった写真2 ?開園当日の雲形池。開園当初は幼木が植えられ、日射病を起こすよかくらんうだとの批判から『霍乱公園』と呼ばれた■公園以前の風景江戸時代初期まで日比谷公園一帯は漁村で、海が入り込む日比谷入江であった。その後、入江は神田山を切り崩した土で埋め立てられ、鍋島や毛利などの大名屋敷が建ち並んだ。但し、埋立地であったため、低地で排水が悪く、雨が降ると泥濘になったといわれている。明治時代になると、旧幕府時代の諸侯の藩邸は新政府によって上地され、1871(明治4)年に現在の公園区域及びその周辺は陸軍操練所、後の日比谷練兵場として使用されるようになった。1869(明治2)年の版籍奉還によって広大な諸侯の藩邸を上地させた新政府であったが、これらの土地を直ちに有効利用するには、練兵場とするより他に使い道がなかったものと考えられる。やがて1883(明治16)年には、外務卿井上馨によって推進された欧化政策の一環として、近接地にロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルが設計した鹿鳴館が完成する。そして周囲に建物が建ち並ぶようになると、砂埃を上げる練兵場は、もはやこの地にふさわしくなくなってきた。そのため、1888(明治21)年頃から練兵場は3km程離れた青山の地に移転した。■公園誕生の経緯と消えたバロック都市計画1889(明治22)年に東京市区改正設計が告示された。これは内務省主導で行われていた計画であり、日本における都市計画の始まりというべきものである。その公園の部には「第一日比谷公園?町區日比谷練兵場ノ内面積凡五萬四千四百坪」とあり、これによって日比谷公園の計画が正式に誕生した。これには王子公園まで計49カ所の公園の位置と面積が示されており、日比谷公園が冒頭に記載されたのは、東京の中央公園として最も重視されていた証拠である。しかし、財政難のため、このうちのほとんどが実現しなかった。では、東京市区改正において練兵場跡地を公園とすることになったのはいつであろうか。東京市区改正委員会の議事録によると、1888年11月に開催された第17号会議において、練兵場跡地を公園にしてはどうかとの提案があった。発言したのは、後に土木学会初代会長に就任した内務二等技こういつぐつね師の古市公威博士と、東京府区部会議員の芳野世経で、審議の結果、日比谷公園の一項を追加することがその場で決定されている。それに遡ること3年前、1885(明治18)年にコンドルが立案した官庁集中計画においても、練兵場跡地を公園とすることが示されている。そもそもこの官庁集中計画は、近代的な国会議事堂や諸官庁建築が整備された姿を諸外国に示そうと、馨がコンドルに作成させたものであった。コンドルの計画は2つあり、そのうちの1つに日比谷練兵場内の東側を大公園にする計画が描かれている。日比谷練兵場内の地質調査結果についても触れられており、練兵場内の地下には自然砂層が広がり、砂層は練兵場の西の高台から東へと傾斜し、西側では地下約10 ft(3.0m)、東側では約70 ft(約21.3m)の位置にあること、地表から砂層までは軟弱粘土層であることが報告されている。その結果を踏まえ、地盤が軟弱な練兵場の東側を公園とする計画としたのである。しかし結局のところ、コンドル案は馨に採用されなかった。その後、コンドルに代わって立案を委ねられたドイツ人技師ベックマンによる壮大なバロック都市計画や、同じくドイツ人技師ホープレヒトとエンデによる計画が立案されたものの、諸外国との不平等条約改正交渉を失敗した引責により、馨は1887(明治20)年に失脚してしまう。そこで、翌年2月に内務省臨時建築局総裁に就任した山尾庸三は、ホープレヒトとエンデによって立案された練兵場跡地への官庁街計画に従って起工する。しかし、劣悪な地盤条件によって全体計画の修正を迫られ、同年9月には練兵場跡東側の軟弱地を公園とする修正計画が上申された。Civil Engineering Consultant VOL.267 April 2015045