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図1 設計図案?1898年公園改良取調委員会(長岡安平)案図3 設計図案?1900年東京市吏員(5名)甲案図2設計図案?1899年辰野金吾案図4 採用された本多静六による設計案。現在に至るまで地割は殆ど変更されていないこうして、失脚によって馨主導の官庁集中計画が後退するなかで、日比谷公園の計画は内務省主導の東京市区改正に取り込まれていく。そして、ここが軟弱地盤で建築不適の地であるとの判断によって、日比谷公園が誕生することになったのである。■日の目を見なかった数々の設計案日比谷公園の設計の中心となったのは、後に日本の公園の父と称される本多静六である。静六は、ドイツの公園を範としながらも一部に日本庭園の手法を加え、洋風7分、和風3分の総合的近代公園として1901(明治34)年に日比谷公園の設計案を纏め上げた。しかし、これに至るまでに多くの設計案が作成されては、日の目を見ずに消えていった。まずは1894(明治27)年、東京府知事に対し日本園芸会に設計を委託するよう出願があり、同会副会長の田中芳男の1案と学芸委員の小平義親の2案が提出された。次に1898(明治31)年、東京市会議員4名からなる「公園改良取調委員、開設意見」市会議長報告で「公園改良取調委員会(長岡安平)案」が提出された。これは、中央を芝生地とし、周囲にカラタチ、シイノキ、雑木、カエデなどを配植し、電灯かガス灯を設置する設計案となっていた。この案は翌年の市参事会で審議され、「本市公園は従来社寺・仏閣を主とするもので、日比谷公園は市自ら経営する最初の公園である以上なるべく慎重を要するから、設計考按を辰野博士に依頼し、その報告を待って設計に着手すべし」と、滞欧経験を持つ帝国大学工科大学長の辰野金吾博士に設計を依頼することで、洋風公園への期待が明確に示された。これを受け、金吾は同年に広場公園式の設計案を作成したものの採用に至らず、次の年には東京市吏員による設計案が出されたが、これもまた不採用となった。こうして、最初の設計案提出から6年の月日が流れてもなお設計案が決まらなかったのは、新しい中央公園に対する大きな期待があったことと、公園設計や実施案に関する経験が不足していたことが大きかった。そうこうしているうちに、市会からの圧力が強まり、また一般市民からの批判も出てきたため、市は1900(明治33)年に日比谷公園造園委員会を設置し、林学博士の静六、軍ただのりはやと医総監の石黒忠悳、日本園芸会副会長の福羽逸人、造園家の小沢圭次郎に設計を依頼し、静六がその中心となった。そこには、設計案が不採用続きで困り果てた金吾が、た046Civil Engineering Consultant VOL.267 April 2015