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またま部屋を訪れた静六に設計を押しつけたという逸話が残されている。静六は、ドイツ留学時に西洋の公園を見た経験と公園に関する蔵書数冊を手掛かりに、初めての公園設計に取り組んだのであった。■静六による和魂洋才案静六の案は、これまで提出された各案の共通点を上手く取り込んだものとなった。1899(明治32)年、外圧によって着工せざるを得なかった市は、決定案を持たないままに長岡安平案に基づいて道路、広場排水、外柵などの公園の輪郭造成を始めていた。さらに、その工事に合わせる形で翌年に東京市吏員案が設計されていた。こうした現実を踏まえ、静六の案は両案の入口配置を踏襲している。園内を曲線で結ぶ広路を設け、東南部の運動場はドイツのコーニッツ市営公園運動場の意匠に倣って設計された。また、西南部の樹林地帯はドイツのベンゼン市立病院遊園を、雲形池はドイツのドレスデン園芸学校教授であるベルトラムの図案に依ったものであり、留学先のドイツの影響がうかがえる。西北部は池の掘削土を盛って小さい丘を築き、その南は芝生地とした。ここには日本庭園を予定していたが、市会で否決された。その他にも、東北部の有楽門近くには旧江戸城の石垣土塁を残し、その内側に心字池を造ることで、日本風林泉の趣を漂わせている。静六が設計案を提出してからも様々な意見が出たが、無事に市会を通過し、1902(明治35)年にようやく着工した。予算は28万円から17万5千円に減額されたものの、既に行われていた地ならしや外柵などの工事費を加えると、日比谷公園の開設には30万円(現在の金額にすると約5億円)近くを要したことになる。造園工事の監督は静六自ら行い、助手の本郷高徳が詳細図面を作成した。かくして、着工後1年余で一応の工事が竣工し、日比谷公園は1903年6月1日に仮開園したのである。これは1889年の東京市区改正設計告示の14年後のことであった。■開園後の風景開園後の日比谷公園は、日本初の洋風公園として明治末の東京の洋風化を支えてきた。花壇にはチューリップやパンジーが植わり、洋風喫茶店の松本楼が出店した。さらに、バンドステージ式の小音楽堂では公園奏楽が行われた。欧米写真3?日比谷見附の石垣と心字池。石垣は江戸城写真4 ?松本楼の横にそびえる首賭けイチョウ。切り内濠のもので、1 6 2 7(寛永4)年に浅野但倒される予定だったイチョウを静六が自身馬守長晟が築いたの首を賭けて移植した写真5 ?公園東側中央部に位置する日比谷門。従来の庭園とは違い、各門には扉が設けられなかったでは当たり前であった洋花、洋食、洋楽を提供する日比谷公園は、ハイカラに出会える場であった。それから100年以上の時が経った現在も、多くの人々が日比谷公園を訪れる。毎年多くのイベントが開催され、園内はいつも人々が集い賑やかである。これからも、日比谷公園は変わらぬ姿で様々な人々を受け入れる都心の貴重な空間としてあり続けるであろう。<参考資料>1)『日比谷公園』前島康彦1980年郷学舎2)『日比谷公園100年の矜持に学ぶ』進士五十八2011年鹿島出版会3)『日本文化になった洋風公園』公共財団東京都公園協会2013年4)『日比谷公園の成り立ち』山口智2004年都市研究センターURBAN STUDYVol. 385)『明治期東京における公共造園空間の計画思想』小野良平2000年東京大学農学部演習林報告第103号6)『明治の東京計画』藤森照信1982年岩波書店7)『コンドルの官庁集中計画に関する研究』清水英範2012年土木学会論文集D2(土木史)Vol.68 NO.1<取材協力・資料提供>1)東京都建設局公園緑地部<図・写真提供>P44上、写真1、3?5遠藤徹也図1?4、写真2公共財団法人東京都公園協会Civil Engineering Consultant VOL.267 April 2015047