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SAN FRANCISCO BAYGolden Gate BridgePACIFIC OCEAN図1ゴールデンゲート橋の位置図(現地案内板に加筆)図2 平面及び側面図季の平均風速は夏季の6割程で霧も少ないが、11~12月には嵐があるため突風が吹き、年間最大風速を記録する。スペイン船が初めてゴールデンゲート海峡を航行して湾に入ったのは1775年であった。そして、聖フランシスコの名のもと伝道所を設立してサンフランシスコと命名した。ゴールデンゲート海峡の名は、1846年にアメリカ陸軍大尉だったジョン・フレモントがイスタンブールの金角湾と似た地形から名付けた。1848年には500人未満だったサンフランシスコの人口は、翌年にゴールドラッシュの影響で10倍に増加した。1900年代初頭には、湾周辺地域の人口は100万人を突破した。カリフォルニアの南北を結ぶ大動脈である国道101号線は、より効率的な幹線道路としてゴールデンゲート海峡を跨ぐことが求められていた。そのため、土木技師でもあった新聞記者ジェームス・ウィルキンスは、1916年8月26日の新聞紙上でゴールデンゲート架橋キャンペーンを始めたのだ。彼は、海峡の北にあるマリン郡の自宅からサンフランシスコ市内の事務所にフェリーで通っており、その不便さを痛感していたのである。この記事に市の技監オションアシィが関心を示し、1917年、47歳のジョセフ・シュトラウスとの雑談で話題にした。このジョセフこそが、以後20年にわたる架橋の立役者となるのである。それまでに長大橋を造った経験はなかったが、橋の企画や建設促進に奔走し、架橋のチーフ・エンジニアとして活躍するのだ。母は音楽家でドイツからの移民だった。自宅から望めるシンシナティ橋は、「吊り橋の父」と言われ、ブルックリン橋測量中の事故が元で亡くなったジョン・ローブリングが1867年に完成させた吊り橋である。ブルックリン橋完成までの16年間、世界最長センタースパンの橋であった。街の誇りとして彼の像が橋詰に建つ。中学校時代にローブリング一家について教わったジョセフは、シンシナティ大学シビル・エンジニアリング学科時代には、100kmもあるベーリング海峡への架橋を研究をするほどの物好きであった。卒業した1892年に橋梁技術者としてスタート。数社を渡り歩き、32歳でカウンター・ウェイトにコンクリート塊を使った、効率的で安価な跳ね橋を考えて特許を取り、会社を設立した。そして400以上の跳ね橋を建設して、富と名声を手にした。その一つがサンフランシスコ・ミッション運河に架かる三番街跳ね橋だ。ジャイアンツ球場の横にあり、1933年に完成した橋は今も現役である。■進化する架橋計画ゴールデンゲート海峡は水深約90m、幅約1.6kmで太平洋の荒波が浸入し、潮流は3~4m/sにも及ぶ。そのため、両岸近くの水深が浅いところに橋脚を設置することになり、センタースパンが1kmを超す長大橋となってしまう。■橋造り一筋の技術者ジョセフ・シュトラウスは1870年1月、オハイオ州シンシナティで4人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。父は画家、写真1ミッション運河に架かる三番街跳ね橋写真2アールデコ調の主塔Civil Engineering Consultant VOL.268 July 2015043