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写真3 架設中の橋ジョセフは1921年6月に1,700万ドル(現在の約200億れ振動で崩壊したタコマ・ナローズ橋の設計者となる。スイ円)の見積もりのカンチレバー吊り橋案を提出した。建設資金はPFIとも言える、サンフランシスコを始めとする地元の6つの郡の住民が保証した債権で賄われることとなった。一方、架橋地は連邦軍事局の管轄区域であった。軍事局は、船の航行や軍の兵站に影響を及ぼす可能性のある構造物について、建設の許認可権を持っていた。検討の結果、橋中央の水深が約90mあり、敵の攻撃で橋のどの部分が破壊されても軍艦の航行に支障はないと判断され、建設計画ス連邦工科大学土木工学を1902年に卒業したアンマンは2年後にアメリカに渡った。45歳でニューヨーク市港湾公社の橋梁部長となり、1927年にはジョージ・ワシントン橋のチーフ・エンジニアとなった。軽快感のある両主塔のデザインは、イルビン・マローによるもので、山型や溝が特徴的なアール・デコ調となっている。また、高くなるにつれて部材を細く水平梁を短くすることで、「あたかも天に昇るイメージ」を演出した。は1924年12月に承認が得られた。1928年12月、橋の建設と運営を担う機構、ゴールデンゲート・ブリッジ&ハイウェー・ディストリクトが設立された。翌年8月にはジョセフがチーフ・エンジニアに選定された。■架設ゴールデンゲート橋の建設は大恐慌最中の1933年に始まった。建設にあたったのは、高度な専門職以外は地元そして、技術が格段に向上した吊り橋の設計理論に基づき、レオン・モイセイエフとオスマー・アンマンがジョゼフと協議を重ね、1930年2月にはゴールデンゲート橋をセンタースパン1,280mの全吊り橋案へと変更した。モイセイエフはアメリカに移住してきたラトビア人で、1895年にコロンビア大学土木工学科を卒業。後年の1940年11月、風によるねじ写真4 自転車は西側、歩行者は東側のサイドウォークを利用写真5マリン郡から望む6車線の橋044Civil Engineering Consultant VOL.268 July 2015