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写真5グアテマラ、アンティグア市。かつて首都であったが震災のため1776年に遷都。結果的に保存された町並みを観光資源としている写真6メキシコ、サカテカス、カテドラルのファサード(部分)。植民地時代にしこたまお金を使って、腕利きの職人に凝りに凝らせて作らせたバロック様式の石彫。これも現代メキシコの観光資源になっているた。紀元前5000年頃、トウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモ・カボチャ・トウガラシなど、旧大陸とは全く異なる作物を栽培し始めたのである。人口密度が増え、紀元前1000年頃、かれらはついに文明を興した。このとき、かれらが最初に営んだ土木事業は、神殿の建設であった。少なくとも中央アンデス地域では、都市にも、灌漑水路にも先んじて、まず神殿が建てられた。初期神殿の代表的遺跡はペルーのパヌコ地方にあるチャビン・デ・ワンタルである。われわれはつい、人間とは、まず生活が豊かになり、その資源を動員して強力な国家をつくり、余裕ができたところで精神陶冶のために神信心を始めるものだと考えがちだが、どうやら逆らしい。まず神信心で一致団結して心を高揚させることで、社会組織の高度化と国家機構の強化が始まり、結果的に生活も豊かになるらしいのである。神殿は次第に巨大化する。メソアメリカ地域(メキシコ・中米)の神殿の特徴は、本殿が巨大な台座の頂上に建てられることである。メキシコシティの北東にあるテオティワカン遺跡などの場合、その台座はその形状からピラミッドと呼ばれる。遺跡最大の「太陽のピラミッド」は高さ65m。太陽のピラミッドがこの最終形態になったのは、テオティワカン国家が滅亡した紀元後650年(滅亡した原因は不明)からあまり遡らないだろうと思う。しかしその時点でテオティワカンは、チャビン・デ・ワンタルのような神殿だけの施設ではなかった。人口20万を収容する市街地を有する一国の首都であり、その人口を扶養する農業地帯一面に灌漑水路網が張りめぐらされていた。ほぼ同時期に中央アンデスで栄えたティアワナコ文化(チチカカ湖の南岸)も、考古学調査で市街地の存在が認められている。のちのアステカ帝国の首都テノチティトランやインカ帝国の首都クスコに連なる先住民大都市の伝統はこの時代に始まったのである。植民地時代─スペインとポルトガルの支配1500年前後の時代を大航海時代と呼ぶ。その主役はスペインとポルトガルであった。いずれもイタリアのジェノヴァの船乗りたちから技術移転を受け、ポルトガルは喜望峰を越えてアジアの海の支配者に、スペインは新大陸アメリカの陸の支配者になった。スペイン人が興した最初の土木事業は都市の建設である。今日は巨大化しているラテンアメリカの都市でも、旧市街へ行ってみると、ずいぶん小ぢんまりしたブロックを単位とする碁盤目の町並みがある。たとえばベネズエラのカラカス。これが最初の住人であった征服者たちが策定した都市計画であり、建物を建てる労働力を提供したのは征服された先住民たちであった。アステカ帝国やインカ帝国を滅ぼすと、その統治下にあった先住民を、征服者たちはこの村はお前のもの、あの村は俺のもの、という具合に分け取り(エンコミエンダ制)にした。そして自分に割り当てられた村の労働力を動員して、まず何よりも先にスペイン式の町を複製したのである。こうして都市インフラがごく早い時期に整ったために、スペイン人の新世界への渡航と移住は急速かつ順調に進んだのである。012Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016