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写真13アルゼンチン、ブエノスアイレスのかつての表玄関レティロ駅。今では近郊線のみの営業ところがサンパウロのすぐ西は標高が高いため冷涼な健康地で、ヨーロッパ人労働者の誘致が可能だった。契約移民(渡航費を前借りする)としてイタリア人やポルトガル人が家族ぐるみで渡航してきて、小作人として苗の植えつけと数年間の管理・収穫に携わった。奴隷を使わずに大いに儲かる経済部門が登場したことで、ブラジル世論は1888年の奴隷制廃止に向けて動き始めた。1908年、最初の日本人契約移民781名を乗せた笠戸丸が入港したのもサントス港だが、黎明期のこの港の衛生は悪名高かった。主因は黄熱病である。アフリカ起源のこの疫病(蚊が媒介)はカリブ海周辺で猛威をふるっていたが、19世紀前半までブラジルではまれだった。ところがコーヒー・ブームで外界との交流が増すと頻々と大流行が起こり、サントス港は船乗りたちから「死の港」とか「世界の墓場」とか呼ばれて嫌われた。しかし今日ではサントス港は年間コンテナ貨物量350万TEU(20ftコンテナ1個を1TEUとする港湾の取扱い貨物量の単位)を捌くラテンアメリカ最大の港である。河口の港なので水深は12mしかなく、サンパウロへの道路では常時トラックが30kmにわたり渋滞しているなど問題山積だが、両岸の港湾施設群は偉観である。世界中どこでも鉄道は20世紀に入ると自動車との競争にさらされ、高効率と低コストを実現した路線だけが生き残るのだが、この面でラテンアメリカの鉄道の成績は決して芳しくない。たとえばアルゼンチンは今や廃線跡王国の様相を呈しており、営業しているのは首都近郊線だけである。乗って楽しい代表的な鉄道線を示すなら、それはメキシコのチワワ太平洋鉄道だろう。シナロア州ロスモチスから西シエラマドレ山中の銅鉱山地帯を抜けてチワワ州チワワにいたる所要16時間の道中は、鉄橋37、トンネル86、最高地点標高2,400m、眼下に大峡谷が広がる大景観の連続である。1900年に着工したがメキシコ革命が始まってしまい、1928年に一部営業開始、全線開通は1961年だった。観光資源としての値打ちもさることながら、鉄道は自動車道路に比べて工事路面の幅が狭くてすむために、山地では意外な競争力を発揮する場合がある。他の例をあげると、クスコからマチュピチュ遺跡への移動手段も実は鉄道だけである。<参考文献>1)高橋均・網野徹哉『世界の歴史18ラテンアメリカ文明の興亡』中公文庫、2009年2)高橋均『ラテンアメリカの歴史』山川出版社世界史リブレット26、1998年3)青山和夫『古代メソアメリカ文明マヤ・テオティワカン・アステカ』講談社選書メチエ、2007年4)網野徹哉『興亡の世界史12インカとスペイン帝国の交錯』講談社、2008年5)V・バルマー‐トーマス(田中高他訳)『ラテンアメリカ経済史?独立から現在まで?』名古屋大学出版会、2001年写真14ブラジル、リオデジャネイロ中心部。右奧が半官半民の石油会社ペトロブラスの本社ビル。1972年竣工、29階建て、設計はR.F.ガンドルフィ。「ブラジルの奇跡」と呼ばれた高度成長期を代表する建築Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016015