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■ダムとトンネルの建設シルバーラッシュと共に発展した街は人口が増大し、水不足と汚水処理が課題となってきた。この対策として1749年に完成したオヤダムが水不足の街を救うと共に、定期的な放流はグアナファト川に垂れ流された汚水の清浄にも役だった。その後エスペランサ・ダムなど数カ所のダムが建設されたため、1849年にダムの役目を終え、今は人々が散策する憩いの場所として存続している。グアナファトには街の中心を東から西へ横切るグアナファト川をはじめ、多くの沢が周囲の山々から流れ込む。そのため、年平均降水量は700mm程度であるが、18世紀後半だけでも5回の洪水が起こった。1772年の洪水では、グアナファト川両岸に高さ10m以上の壁が必要と提案されたが、採用には至らなかった。しかしその後の度重なる洪水対策の一つとして、1780年に川沿いの低地を約5m嵩上げすることを決定した。これにより一般の住宅だけでなく、1663年にこの地で最初の修道院として造られたディアグイノ修道院も土砂の下に埋められてしまった。しかし修道院は一段高い位置に再建された。この対策後も洪水被害が発生したため、1822年に市街地に地下排水トンネルを計画した。60余年後の1883年になってようやく建設に着手したが、直径3mで135m掘削されただけで2年後に中断されてしまった。その後、土木技師ポンシアーノ・アギラールが主導して、当時最新の採鉱技術を使いポズエロダムまでの延長1,162m、直径7mのエル・クアジントンネルを1908年に完成させ、地下に水を導くことに成功した。1996年には考古学的なプロジェクトにより、埋まっていた修道院を掘り出し、博物館としてよみがえらせた。また、泥を掻き出してレストランに改造した旧住居もあり、店前の斜路は地下道へのランプとなっている。■地下都市の成立トンネルで構成されている地下都市の成立には、次の3つの形態がある。1つ目は20世紀初頭に鉱山技術により建設された河川トンネル、2つ目は1780年に川沿いの両側を5m嵩上げした際に、石とレンガで河川縦断方向に連続して造った多数のアーチ橋で蓋掛けした河川暗写真3かつては屋根があったラジャス銀鉱の販売所跡写真4オヤダムと小さなゲート写真5 橋上の家屋渠、3つ目は1960年以降に建設された新しい道路トンネルである。ダムや排水トンネルの建設、地盤の嵩上げと、積極的に都市インフラの整備に取り組んできたが、河川への汚水排出による衛生問題や、自動車交通量の増加による交通渋滞と駐車場問題が顕著となってきた。そこで、1950年以降に河川を更に深い位置に切り替える整備が開始され、河床をそのまま道路として活用する計画が発案され、1974年には大規模な鉄筋コンクリート管を開削工法で河床下に設置する工事が行われた。こうした整備により、あたかも地下道路が建設されたように見えるが、古い構造物は全て河川構造物を再利用したもので、河川上空も含めて人工地盤からなる。1960年以降のトンネルは、街の交通計画に沿って建設されたもので、地下道路網は1988年に完成し、現在の地下都市となった。通勤や通学の足となる大型バスが通行出来ない中心市街地となるセントロ地区では、この018Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016