ブックタイトルConsultant270

ページ
23/72

このページは Consultant270 の電子ブックに掲載されている23ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant270

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant270

大西洋太平洋図2パナマ運河のしくみ1メキシコグアテマラエルサルバドルニカラグア湖5サンブラス・ルート6カレドニア・ルート7トゥイラ・ルート8アトラト川・ルートベリーズホンジュラスニカラグアコスタリカ太平洋図1アメリカ海軍による運河候補ルート1テワンテペック・ルート2ニカラグア・ルート3チリキ・ルート4パナマ・ルートパナマ・ルートシャ(ドイツ)のフンボルトは詳細な調査を行い、スペインの4候補以外に9ルートを挙げている。1838年、フランスのナポレオン・ガレラは北米の五大湖と大西洋を結ぶウェランド運河(1829年完成)で応用されていた閘門式運河案を採用し、現在のパナマ運河ルートに近いリモン湾からバカモンテまでの区間に計35の閘門を造る案を提案した。アメリカ第18代大統領ユリシーズ・グラントは、中米地峡に「アメリカの運河」を建設するための調査を海軍に命じた。1870年から5年間にわたり8つのルートの調査が行われ、ニカラグア、パナマ、コロンビアの3ルートが挙げられた。そのうち天然のニカラグア湖を利用するニカラグア案が最有力候補となった。■フランスによる運河建設と挫折1879年、レセップスはパリで「両洋間運河研究国際会議」を開催した。アメリカはニカラグア案を提案したがパナマ案が採択され、海面式運河にするという採決も行われた。レセップスを代表とするパナマ運河会社が設立され、当時この地を支配していたコロンビアから運河掘削権を購入し、1880年1月にパナマ運河の建設を開始した。建設にはスエズ運河に利用された建設機械、1867年発明のダイナマイト、浚渫船、蒸気ショベルなどが使わ2カリブ海3 4 5 6パナマ(Cari R. Oriver, Panama?s Canal)7コロンビア8れた。工事の最大の難所は延長13.7kmの切土掘削を阻むクレブラ(蛇の意味)地帯であった。太平洋側から約10km入ったところにあり、標高100mほどの丘陵が分水嶺をなしている。地質はクカラッチャ(ゴキブリのけつがん意味)と呼ばれ、粘土層と頁岩が混じり、水分を含むと崩れやすくなる。大雨が降ると、たびたび地すべりを起こし、建設機械を埋め尽くした。1885年にはパナマ運河会社の資金が枯渇し、1889年2月5日に破産した。6億1,500万フランの巨費を投じ、延べ20万人の労働力を動員したが、パナマ運河建設は失敗した。8年間の工事期間中、黄熱病やマラリアなどで22,000人の死者が出ている。■パナマ運河条約1898年、キューバでスペインによる植民地支配に抵抗する反乱が起きた。アメリカはキューバ支援のため、太平洋上の戦艦オレゴン号に出撃命令を出したが、南米最南端のホーン岬を回りキューバに到達した時には戦争が終わっていた。これを契機にアメリカの運河を、という世論が起こった。植民地獲得競争の時代の中、アメリカにとっての中米地峡運河は単にショートカットだけでなく、中南米での軍事拠点を設ける意味もあった。アメリカが建設したパナマ鉄道の医務部長をしていたパナマ人マヌエル・アマドールは、1903年頃、コロンビアからの分離・独立を目指す運動をひそかに行っていた。当時のパナマには資金も軍隊もなく、唯一の頼みはアメリカであった。アマドールはニューヨークで、フランスのパナマ運河建設時代に技師長をしていたフランス人フィリップ・ビュノー・ヴァリーヤに会った。1903年9月、ヴァリーヤはアマドールに独立に必要な軍事作戦を指示し、『独立宣言文』『新共和国憲法』草案などの文書まで準備し、必要資金の提供も約束した。アマドールは1903年10月20日パナマに向けて出発した。アメリカはパナマの分離・独立を支援するために、カリブ海側と太平洋側に巡洋艦を停泊させ、コロンビア軍の行動を牽制した。1903年11月3日、パナマ市でコロンビアからの分離独立が無血により正式に宣言された。Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016021