ブックタイトルConsultant270

ページ
27/72

このページは Consultant270 の電子ブックに掲載されている27ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant270

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant270

写真2右手がサン・クリストバルの丘写真3リマで最も古いカテドラルに位置するアルマス広場であり、ピサロはこの広場を中心に碁盤の目状に街を築いていった。現在では毎正午に衛兵の交代式が行われ、創建時から変わらぬリマの代表スポットである。もう1つはサン・マルティン広場で、ペルーの独立を宣言したホセ・デ・サン・マルティンの名が冠されており、比較的歴史は新しいが、市民の憩いの場となっていてイベント等が頻繁に行われている。このような建築・都市計画的な特徴が評価され、1988年にはサン・フランシスコ教会・修道院が、1991年にはリマ歴史地区全体がユネスコの世界文化遺産に登録された。■ピサロによるインカ帝国の征服このようにリマは、建築や都市計画に焦点が当てられることが多いが、都市創建までの背景や経緯が述べられることは少ない。そこでまず、征服者・ピサロがインカ帝国を発見し、征服する過程をたどってみる。時代は大航海時代の15世紀末から16世紀前半である。コロンブスがスペイン女王イサベルの援助を得て、1492年に西インド諸島に到達した後、スペイン人の植民地支配が拡張していく。その中でピサロは、太平洋を南下して南米大陸の海岸地域を調査すると、インカ帝国領土内であったペルー北海岸の都市を発見する。彼は一旦スペインに帰り国王と交渉し、その征服を一任された。わずか180名という少数部隊を引き連れ、インカ帝国が支配していた当時のペルーに上陸したピサロは、金銀等の財宝を採取するため、キリスト教の布教を名目に、インカ帝国を次々と撃破し、自治都市としてクスコやハウハを建設していった。ハウハの建設は大量の金銀が集積していたからである。アンデス山脈内の山岳都市であるハウハは不便なため、後に海岸に近いリマを建設し、ハウハの住民は全てリマに移り住んだと言われている。船舶による貿易が都市繁栄のための必須事項であったことから、鉱山等の資源が豊富な山岳都市を1つの拠点として有しつつ、沿岸部に拠点を併設することは時代写真4ピサロの遺体が安置されている棺の要請であったのだろう。一方で、リマは厳密には港湾に近接していない。リマ創建後、アンデス山脈で産出された銀等はパナマ経由でヨーロッパへ輸出され、ヨーロッパからはワインや布等が輸入された。その拠点はリマから約10km離れた港湾都市カヤオであった。なぜ、ピサロはカヤオではなく海岸から離れたリマに中心都市を創建しようとしたのだろうか。■リマ創建の背景その大きな理由は海賊にある。当時、イングランドの海賊を中心として、スペインの貿易船や植民都市を襲撃することは日常茶飯事であった。後にリマが市街地の外周に城壁を構築したように、海賊への対処は支配者の悩みであり続けた。ピサロも例外ではなかった。彼自身がインカ帝国を征服した海賊であったことも、当時の海賊がもつ軍事力の強大さを人一倍脅威に感じていた証しである。では、海賊への対処に配慮して、海岸から離れた位置とすることを決めながら、リマが選ばれたのはなぜだろうか。Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016025