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写真5城壁公園に残る城壁跡写真6住宅地に残る城壁跡1つは地形にある。サン・クリストバルの丘と呼ばれる標高400m程度の丘陵が旧市街北側に位置しており、地政学上この丘が見張り台として適していたと考えられる。現在はリマを代表する観光地となっており、丘の上にはピサロが建てたと言われる巨大な十字架がそびえ、その麓には大統領官邸から良く見えるように鮮やかな色を塗ったという住居が張りついている。リマとカヤオを繋ぐリマック川の存在は、ピサロの判断に影響を与えたのだろうか。リマック川は水深が浅いため、交易はラバ等による陸路が主体であったと推測され、舟運の利便性は低かったと考えてよい。リマック川からは用水路が引かれ、砂漠地帯でありながら小麦やトウモロコシ畑、果樹園等への灌漑が可能であった。実際に建設地には集落が存在しており、都市生活を支えるリマック川の産業面での貢献は大きかった。また、その肥沃な大地には樹木が生育しており、住居建設のための木材調達が容易であったことも、リマック川近傍に適地を選定したもう1つの大きな要因であった。さらに、地元のインディオが敵対的でなく、都市の防御が比較的容易であったことも挙げられる。このようにピサロは、外敵への防御性や地形、産業といった複合的な要因から中心都市の建設地を選定し、1535年1月18日、「諸王の街」と名付けて創建を宣言した。現在はリマと呼ばれているが、その語源はリマック川の左岸に位置していたためと言われている。ピサロはこの6年後となる1541年、インカ帝国残党の内乱に巻き込まれて没する。その後のリマの繁栄を考えると、さぞかし無念であったに違いない。現在、彼自身が礎石を置いたカテドラルはアルマス広場の正面にそびえ、その内部にはピサロの遺体とされるミイラが安置されている。■都市の変遷と城壁16~17世紀のリマはペルー副王領の首都として、また南アメリカのスペイン帝国全体の首都として、行政及び商業の中心的な都市であった。そのため海賊等からの襲撃が続き、インディオとの関係も悪化したことから、1684~1687年にかけて市街地の外周に城壁を築いた。城壁の素材は日干し煉瓦や、リマック川から産出される玉石と粘土からなり、34の五角形の稜堡から構成されていた。稜堡には砲台や銃眼等が無く、インディオや海賊への対処としては壁だけで十分であった。しかし城壁は1872年に撤去された。その理由の1つは、リマの人口が1700年頃に約4万人、1850年頃には約12万人と増加し、都市拡張の必要性が迫られたことである。加えて、1784年や1821年にペルーを襲った大地震に対して、煉瓦造りの城壁は脆く、そのたびに破損し修復を繰り返していたことも影響している。城壁が取り除かれた場所は幹線道路や交差点として整備され、現在の旧市街の外周路として新たな骨格となっている。今でも旧市街には、リマック川沿いに整備された城壁公園や東部住宅地内に城壁が残っている。東部住宅地は治安の悪い低所得者街であり都市開発の波がまだ及んでいないことが、城壁の残存に寄与したのだろう。その城壁は複数の種類の石材で構写真7 城壁公園のピサロ像026Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016