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1565年3月1日、ポルトガルはこの自然の目印の麓にリオデジャネイロ市を創建した。ウルカの丘は出入港する船を監視するのには都合が良く、街の防御に適した地形でもあったことが理由だ。屹立するポン・デ・アスーカルの壮麗さは多くの旅行者を魅了し、登山家はこの山の頂上を目指した。その偉業は1817年、イギリスの婦人ヘンリエッタ・カーステアズが達成した。その後、1822年にブラジルは独立を果たす。20世紀になると、ブラジル政府はリオデジャネイロ市の都市改造に着手し、都市計画の専門家であるフランシスコ・ペレイラ・パソスに依頼。そして投資を促すため、1908年に国際展示会を開催した。おりしもこの年、日本からのブラジルへの移民が始まった。この展示会のパビリオン建設に従事していた1860年生まれのエンジニア、アウグスト・フェレイラ・ラモスは、会場の背景となった印象的なポン・デ・アスーカルに着目していた。ヨーロッパで稼働したばかりのロープウェイを知っていたラモスは、その山頂とをロープウェイで結ぶという、奇想天外なアイデアを思いついた。実現すれば、誰もが簡単に山頂に行き、素晴らしい景観を楽しむことができる。このロープウェイ計画に対して、エンジニア仲間からは嘲笑され、多くの懐疑論が出された。しかし1909年、ラモスとその友人たちはポン・デ・アスーカル索道会社を設立したのである。当時、ロープウェイはスペインとスイスの二カ所にしかなかった。写真1(左)アウグスト・フェレイラ・ラモスの胸像図1(右)1909年に市長に承認されたロープウェイ計画図■ボンジーニョの誕生1909年から始まった工事ではブラジルとポルトガルの労働者が一緒に働いた。最初のケーブル敷設のために、ウルカの丘とポン・デ・アスーカルの麓にパイロット・ケーブルが運ばれた。別のチームが長いロープを持ち、ウルカの丘では森の道を通って山を登り、ポン・デ・アスーカルの岩肌をよじ登った。そして、投げ落とされたロープにパイロット・ケーブルが結ばれた後、山頂に設置した手動巻き上げ機で引き上げてケーブルを設置し始めたのだ。コンクリート構造の山頂駅舎や展望エリア等を造るためには岩盤を1.5m掘り、直接基礎を構築した。3年後、市南部のヴェルメーリョからウルカの丘までの528mのロープウェイが完成し、1912年10月27日に運行を開始した。多くの市民が関心を寄せ、初日は577人を運んだ。翌年、ウルカの丘からポン・デ・アスーカルまでの750mが結ばれ、1月18日に運行が始まった。この日、近付き難いと思われていたポン・デ・アスーカルの山頂に449人が降り立った。当時の黄色い木製ボンジーニョは22人乗りで、75hp(55kW)の電気モーターを使用し、毎秒約2mの速度で1日当たり最大2,100人運ぶことができた。所要時間は前者が4分、後者は6分であった。写真2ポン・デ・アスーカル駅の工事写真3ウルカの丘とポン・デ・アスーカル間の検査Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016033