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特集まちと樹の共生?木との付き合い方を探る?5都市で森を育て続けてきた40年?帯広の森?鈴木俊一SUZUKI Shunichi帯広市都市計画部長帯広には自然林と見紛う見事な姿を見せる人工の森「帯広の森」がある。帯広の街の人々は、街のすぐ傍らにあるこの森と、4 0年の間、どのように関わってきたのだろうか。そしてこれからどのような付き合いを続けていくのだろうか。北海道の田園都市おびひろ十勝帯広は、先住民族のアイヌの人々が暮らしていた地域に、明治16年に依田勉三を長とした晩成社が開墾の鍬をおろし、拓かれた地である。以来、近代合理化主義による拓殖計画のもと、今の帯広の街が創られており、北海道開拓の主流であった官主導の屯田兵による街づくりの歴史を持たない稀有な中核都市である。帯広市は北海道の東部、広大な十勝平野の中心部に位置し、人口約17万人、面積約620km 2、農業を主産業としており、都市と農村、自然環境が調和した「人と環境にやさしい活力ある田園都市おびひろ」を都市像に掲げ、まちづくりをすすめている。そのまちづくりの一環として、100年の大計により、市街地外環の開拓地に木を植え「帯広の森」を造っている。この森づくりは市民参加型で行われており、市民協動のまちづくりを象徴する事業の一つとなっている。帯広の森構想帯広の森構想は第5代市長の吉村博によって輪郭がつくられた。昭和34年に策定した『帯広市総合計画』のなかで、まちづくりのテーマを「近代的田園都市」と位置づけ、「良好な生活環境を保全しつつ、行政としての責任の果たせる都市人口の最適規模は20万人程度(当時の人口は約10万人)である」として、都市の成長規模の上限を設定した。この計画の土地利用には、「都市計画用途地域の周辺部に緑地帯を指定するとともに、帯広川河畔の風致地区を存置するように図る」とあり、グリーンベルト的な考えが包含されていた。昭和44年に吉村市長がオーストリアを訪問し、そこで「ウィーンの森」に出会ったことを契機として、帯広の森構想が具体化された。広大なウィーンの森と共生するウィーン市民に大きな感銘を受け、翌年に第2期総合計画策定審議会を発足させ、帯広の森構想を発表した。そして、昭和46年4月に策定された『第2期総合計画』において、帯広の森はまちづくりの主要な施策として明確に決定された。その後、市議会での激しい論争や市民の気運の高まりなどを経て、事業がスタートした。帯広の森の面積は406.5ha、幅が約550m、延長が約11kmであり、森を中心とした緑のベルトが十勝川から札内川を結ぶことによって、帯広の市街地を包み込む。都市部への人口や産業の過度な集中が進むことによる宅地の郊外部への無秩序な延伸(スプロール化)を防ぎ、都市部と農村部を区分し双方の交流の場としての役割や都市林による公害抑制、都市災害の防止、微気象・環境の緩和、生物生息環境の保全などの機能も併せ持つ。また、緑による安らぎ、余暇利用のための空間確保なども重視しており、快適な都市環境を確保することを目的としている。市民からも帯広の森づくりに積極的に参画する運動の輪が広がり、昭和49年に7団体の参加による森づくり市民組織が設立された後、市民植樹祭実行委員会が設置され、森づくりを通じた市民協働のまちづくりが展開された。造成の基本的な考え方帯広市では昭和50年に『帯広の森造成計画』を策022Civil Engineering Consultant VOL.273 October 2016