ブックタイトルConsultant273

ページ
33/60

このページは Consultant273 の電子ブックに掲載されている33ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant273

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant273

2(上)現在の船町湊3(左)舟運で賑わう大正時代の船町湊4(右)大正末期の赤坂湊5(下)史跡として整備されている現在の赤坂湊ていった。桑名湊からは廻船によって、江戸や大阪に輸送できたため、この地の産物である米や菜種油、清酒などの移出に、陶器や海産物などの生活物資の移入に利用された。これらを中心的に担ったのが船問屋であり、船町湊では壷屋と木因の生家である谷家の2軒がほぼ江戸時代を通して務めた。谷家は間口約36m(19間4尺9寸)、奥行約51m(28間)の屋敷を構えるほどの問屋であったが、木因が九太夫として谷家三代目の家督を相続した時には零落していた。九太夫は家の再興に尽力し、江戸船2艘、川船7艘を保有するまでに至った。大垣の舟運は明治時代以降も続き、明治14(1881)年頃の船の所有状況でも水門川筋の船町で合計48艘、杭瀬川筋の赤坂村で8艘、揖斐川筋の三村(津村、平村、大村)で6艘などの記録がある。さらに時代を下ると、蒸気船が運行され人や物資の輸送を担った。明治17(1884)年に設立された大垣乗船会社の運航記録では、大垣を8時、11時、20時の3回出港し、20時の便は桑名に翌朝7時に着く夜行便であったようだ。これらの舟運の拠点の一つが船町湊であり、芭蕉はこの湊から木因の持ち船で水門川を下り、揖斐川に出て伊勢を目指した。その時の別れを惜しみ『蛤のふたみに別れいく秋ぞ』の句で結んだ。<参考文献>1)大垣市編(2013)『大垣市史通史編自然・原始?近世』大垣市2)大垣市編(2014)『図説大垣市史』大垣市3)郷土出版社編(1983)『写真集思い出のアルバム大垣』郷土出版社<写真提供>125筆者34大垣市Civil Engineering Consultant VOL.273 October 2016031