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名越第一切通し第70回古都鎌倉の歴史に触れる「切通し」神奈川県鎌倉市/逗子市セントラルコンサルタント株式会社/東京事業本部/企画営業部-谷口史記/TANIGUCHI Fuminori(会誌編集専門委員)■鎌倉幕府と切通し1180(承久4)年に鎌倉入りを果たした源頼朝は、その後、宿敵平家を掃討し征夷大将軍の地位についた。そして鎌倉の地で初めてサムライ中心の武家政権を誕生させた。頼朝は鎌倉の道づくりにも力を入れ、平安京の朱雀大路にならったメインストリートとして若宮大路を手掛けたのを皮切りに、南北・東西の幹線道路や放射状の軍事用道路である鎌倉街道等を次々と整備し、武家政権の基礎固めに邁進した。切通しの整備に力が入れられたのは頼朝の没後、北条による執権政治が始まって以降であった。切通しとは、山や丘などを掘削して人馬の交通を行えるようにした道である。今も、鎌倉周辺には数多くの切通しが存在している。そなごえあさひなこぶくろざかの中でも主要な切通しとして、名越・朝比奈・巨福呂坂・かめがやつざかけわいざかだいぶつざかごくらくじざか亀ヶ谷坂・化粧坂・大仏坂・極楽寺坂の7つがあげられ、「鎌倉七口」として伝えられている。なぜ、鎌倉幕府は切通しを整備したのだろうか。■交通利便性から見た切通しの役割あわのくに平家との戦いで劣勢に立たされ房総半島の安房国に逃れた頼朝が、再び反旗を翻し数万の兵を率いて鎌倉入りしたのは、1180(承久4)年10月とされている。当時の記録書として知られる『吾妻鏡』によると、安房国に滞在していた頼朝が鎌倉の地を目指すきっかけとなったちばつねたねのは、有力武将の千葉常胤の「富時の御居所は、させる要害の地にあらず、また御曩跡にあらず、速やかに相模国鎌倉に出でしたまふべし。(そんな所に居ないで、もっと要害堅固であなたのゆかりの土地があるではありませんか。早く鎌倉に行きなさい)」との鞭撻だ。そして、頼朝が幕府を開いた鎌倉の地は、南方を海、残りの三方を山で囲まれた陸の孤島で防御に適していたが、交通面では極めて不便であった。そのため、鎌倉における切通しは各方面への交通利便性を向上させるためにつくられたのが大きな目的の一つとして考えられる。鎌倉七口は鎌倉幕府が滅んだ後も、江戸か040Civil Engineering Consultant VOL.273 October 2016