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ち込まれたとされている。大仏坂切通し化粧坂切通し極楽寺坂切通し図1「鎌倉七口」切通し位置図亀ヶ谷坂切通し巨福呂坂切通し名越切通しら明治時代に至るまで修復を重ねながら頻繁に利用され、主要な交通ルートとしてその役割を果たしていた。切通しの整備に至る過程や工事の状況については、朝比奈切通しに関して、1240(元治1)年に3代目執権である北条泰時が計画し、自ら指揮をとって工事を行ったことが『吾妻鏡』に記されている。これ以外に当時の様子を紐解く記録や資料はほとんど残っておらず、実情はよく分かっていない。朝比奈切通しは、鎌倉十二所から六浦(現在の横浜市金沢区)に抜ける道である。六浦港からは船で房総へと繋がる主要拠点。その道は物流としても重要であり、六浦で生産された塩のほか、房総や武蔵をはじめ多方面から魚・米・野菜が舟で六浦港に運ばれ、この切通しを通って鎌倉に持朝比奈切通し■防御機能から見た切通しの役割切通しの整備が進められた北条執権時代は、天下統一がなされた平穏な時代であったとされているが、未だ京都における朝廷の力も侮ることができなかった。また、近隣の三浦半島では勢力を拡大しつつあった三浦氏との対立関係という問題を抱えていた。このような中、鎌倉の閉鎖的な地形は外部からの攻撃に対して強力な防御機能を持ち難攻不落の地と称されていた。だが、切通しの整備により鎌倉から外部への交通利便性を向上させることは、逆に防御面での利点を弱め、敵からの攻撃が受け易くなるといった諸刃の剣でもあった。そのため切通しの整備にあたっては様々な防御的な工夫が施された。一般的に切通しには、人ひとりが通れるほどのわざと狭くした幅の部分があり、直線的ではなく蛇行した道筋が多く見られる。これらは多勢での攻撃に対して、一気に攻めあがきりきしひらられることを防ぐためと考えられている。また、切岸、平場おきいしおおほうとうこおほうとう置石、大風洞・小風洞といった防御のためと思われる施設の痕跡が、切通し内には点在している。切岸とは、敵の侵入を防ぐために人工的に作られた崖のことで、三浦半島へ通じる名越切通しには敵対する三浦氏の侵入を防ぐため、長さ800m以上にわたって高さ3~10mの崖が尾根沿いに造られ、大切岸と呼ばれ今も残っている。また、置石は路面に埋められた大きな岩であり、これにば、写真1朝比奈切通し写真2名越切通しの大切岸Civil Engineering Consultant VOL.273 October 2016041