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写真3名越第三切通しの置石写真4 名越切通しの発掘調査利用されていた。名越切通しの発掘調査は、1966(昭和41)年に国の史跡指定を受けたのをきっかけに、切通しのほか「まんだら堂やぐら群」や「大切岸」等の保存方法を検討するため、逗子市教育委員会が主体となって行われた。その後、史跡整備に活かすことを目的とした考古学的な調査として実施されている。「やぐら」とは、崖に四角い横穴を掘り、内部に石塔を建てるなどして納骨・供養するための施設で、「まんだら堂やぐら群」は150以上の「やぐら」が1カ所に集まっている。保存状態も良く貴重な史跡となっている。これまでの発掘調査からは、現在の切通し地表面から下には何層にも重なった道路修復跡とみられる堆積層があるほか、柱穴状遺構、火葬址を含む土坑、溝状遺構が確認されている。出土遺物としては小皿や鉢等のかわらけが多くを占めている。写真5まんだら堂やぐら群より攻めあがる敵の人馬を立往生させるためのもので、開けた場所から急に両岩壁を迫り出させて道幅を狭くしている大風洞や小風洞も、同様に敵を足止めするために設けられた。さらに、このような施設周辺の崖上に見られる平場は、敵を待ち伏せするための平らな場所であり、立往生した敵の軍勢を崖上から弓矢で攻撃した。■名越切通しの発掘調査切通しについては前述の通り資料が少なく、かつ専門的な調査もあまり進んでいない。未だ謎に包まれた部分も多いが、現在逗子市によって管理されている名越切通しに関しては、幾度となく専門的な発掘調査が実施されてきている。この名越切通しは逗子を抜け三浦半島へと通ずる道であり、途中の横須賀走水や久里浜から船で房総半島へ渡り、安房や上総へと北上する古東海道ともいわれている。1883(明治16)年に県道名越トンネルが完成し、1889(明治22)年に国鉄横須賀線が開通するまでは主要な道路として■考古学的知見からみた切通しの姿名越切通しの発掘調査の結果をもとにした考古学的知見からみた切通しの姿は、これまで一般化されている説を覆す点もいくつか含まれるものであった。名越切通しは、鎌倉七口の中でも古都鎌倉の周縁の歴史的景観を保ちつつ切岸・やぐら等の史跡も数多く、一般的な「切通しらしい」姿を多く残している。特に、南側の亀が岡団地口より入ってすぐに位置する第一切通しの姿は、まさに当時の鎌倉幕府が道幅を狭くして、敵を上から弓矢で攻撃するための防御施設として、これまでに広く紹介されてきた。しかし発掘調査によると、現在の第一切通しの地表面から60cmの深さには、少なくとも4回の道路補修の跡が確認されている。そして、最下層の岩盤付近からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土したことから、現在のルートは古くても江戸時代のものだと判断されている。また、約90cmの狭い道幅の部分は、江戸時代には270cm以上はあったが、大地震等により崖が崩落して埋まり、その都度復旧を施した結果、現在の形になったと考えられている。つまり考古学的知見からすると、鎌倉幕府が切通しを整備する際に道幅を狭くして防御機能を施したのとは違った見解がなされた。さらに、第一切通し手前の北東側の約5m高い所で15世紀以前と判断される幅1m未満の道路遺構や、第一切通しの岩壁上約8mの部分に「やぐら」が存在したことが確認されている。このことより、鎌倉時代当初の道は、第042Civil Engineering Consultant VOL.273 October 2016