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模で、ロトルア付近で死者153人を出し、約212km 2の範囲に厚さ1m以上の火山灰が降り積もった。この国最大のタウポ湖はA.D.200年頃の大噴火に伴って陥没したカルデラが大部分を占める。一方、オークランド都市圏は48個からなる火山地帯に位置している。大部分は約1~2万年前に噴火した1回限りの玄武岩質の火山だが、将来の活動がないと断言できない。タウポに集中する地熱発電は総発電量の約8%を占め、水力6割と火力2割の比率で原子力発電をもたない自然エネルギー立国を実現しているといえよう。432 1図2北島中部の断層・褶曲とタウポ火山帯(M7.8)では死者258人に達する最多の犠牲者を生じた。ネーピアやヘイスティングスのレンガや石造建物の大部分が倒壊し、直後に火災も発生した。ネーピアの中心部は壊滅し、死者の42%は11~40歳の青壮年層だった。地震約1カ月後に政府主導の復興委員会が設置され、全権を掌握し、資金力をバックに地元と協力して復興街づくり事業に取り組んだ。1年後には耐震耐火の鉄筋コンクリート2階建、当時流行のアールデコ様式を中心とする統一的デザインを採用した美しい新都心が創出された。現在、この種の建物では世界一の集積地となり、観光資源として保護、活用されている。また、厳しい建築基準の制定や国が運営する地震保険制度が導入されるなどの教訓が今日まで生かされている。2011年2月22日クライストチャーチの地震災害では日本人28名を含む185名が犠牲になり、中心市街地は深刻な建物被害からの再建中である。また、液状化が繰り返し発生した低地部では約6,000戸の住宅地を政府が買い上げ、危険地帯からの強制移転を実現させた。タウポ火山帯では北のホワイトアイランドから南のルアペフ山まで多くの活火山が分布し、幅30~70kmの地溝をなす。1886年6月10日のタラウェラ山噴火は大規開発の歴史民族的には先住民マオリとイギリス系を中心とした白人から構成される。マオリは1200年頃、太平洋のハワイキからカヌーを操って移住し、北島の森林地帯で自給自足の原始的農耕をおこなっていた。1642年オランダ人タスマンが発見、オランダの地名でゼーランデアノバと命名、ニュージーランドの語源となった。1768年クックらは東海岸に上陸、半年間にわたり海岸線地図を完成させ、イギリス植民地を宣言した。ニュージーランドはオーストラリアのサウスウェールズの一部に組み込まれたが政府は放置した。このため、捕鯨、アザラシ狩り、カウリ伐採、宣教師らが続々と流れ込んだ。アカロアにフランス人開拓地が開かれたため、領有権の問題から1840年にマオリ首長45人とワイタンギ条約を結び、直轄植民地とした。条約は「1マオリの主権を英王に譲渡する」「2土地、森林、水産資源などの所有権は保護される」「3英国民として保護特権を与える」という植民地の先住民に対して画期的内容をもつものだった。開発の進展には、1840年から1850年までに約1万人の白人を送り込んだニュージーランド会社の組織的移民事業が大きく貢献した。最初の移民船6隻は1840年3月ウエリントンに到達したが、入植地が狭く不満が出た。このため、会社は代替地としてワンガヌイ、ニュープリマス、ネルソンの3カ所を新たに開発したが、いずれもマオリの居住地があり土地紛争が発生した。一方、1943年スコットランド自由教会が新天地を求めてオタゴ地方に入植。1850年には英国国教会派が理想的な共同社会を実現する目的でクライストチャーチに入植。いずれもニュージーランド会社の支援を受けたものだった。両者はマオリ人口が少ない地域で順調に発展した。経済発展ニュージーランドの経済発展には1855年に始まった014Civil Engineering Consultant VOL.274 January 2017