ブックタイトルConsultant274

ページ
27/72

このページは Consultant274 の電子ブックに掲載されている27ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant274

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant274

写真1木製水路と給水馬車(1858年までの水源)図2スキームの概要リス人の入植が始まったのは、現在のサーキュラー・キー辺りになるシドニー・コーブに淡水の流れがあったからだ。長さ1.5km程の流れの集水エリアは小さく、湿地を水源地としていた。しかし、この流れに沿って多くの家が建ち始めたことで、生活雑排水やごみなどが流れ込み汚染されてしまった。そのため、1826年には水源地としての使用が禁止されてしまったのである。次の水源地は南東に4km程の湿地に決まった。この場所からは、囚人たちにトンネルを掘らせて街まで水を運んだ。担当エンジニアは囚人たちが怖くて指示を出せず、好き勝手に掘られた結果、トンネルは曲がり、水路勾配も付けられなかった。トンネル以外には木製水路を造って、最後は給水馬車で水が配られた。1837年から使い始めたが、1858年の大干ばつにより、新たな水源地を探すこととなった。第3の水源地であるボタニー湿地の給水場は蒸気機関で水を汲み上げていた。1859年から給水していたが、シドニーの人口増加に伴い給水量不足となり、1890年には終了せざるを得なかった。そしてまた、新たな水源地を探さなければならなくなったのである。入植者たちは、常に雨が降り、川が流れるイギリスから来たため、水の保全や保存の知識が乏しく、水源地を汚染から守ることの重要性についても認識していなかった。そのため、街は断続的に水が尽きる状況となっていた。■独創的な発想1867年、人口増加や度重なる干ばつ、水供給への住民不安に対応すべく、将来のシドニーへの水供給を検討する委員会の委員5名が知事から任命された。2年の調査が終わった1869年に委員会は、現段階では最悪であるシドニーを、オーストラリアの中で最も水に恵まれた都市とし、住民たちに健康、快適さ、そして繁栄をもたらすために、アッパー・ネピアン・ウォーター・サプライ・スキーム(Upper Nepean Water Supply Scheme)を推奨したのである。これはシドニーの南西に位置し、頻繁に雨が降るネピアン川上流の1,000km 2の集水域から水を引き、大きな貯水池に貯える計画であった。この独創的な発想は、委員の一人であった公共事業部門のチーフ・エンジニアだったエドワード・オープン・モリアーティが計画した。その後の調査に時間がかかり、1880年になってようやく工事が始まった。水路勾配を小さくしつつ、水を自然流下で街まで流す計画のため、トンネル、運河、水路橋の敷設には高い技術が要求された。1824年、アイルランド生まれのモリアーティはダブリンのトリニティ・カレッジで教育を受けた。1843年に家族とともにシドニーに到着し、コンサルティングエンジニアと測量技術者を務めた。エンジニアとしての経験を積んだ後の1859年、ニュー・サウス・ウェールズ(NSW)州の公共事業部門のチーフ・エンジニアに任命され、1862年に道路とエンジニアの責任者に就任した。1865~1866年にはピルモント橋の建設監督をした。1867年にはシドニーへの水供給を検討する委員、1875年には公共事業入札委員会と下水道衛生委員会のメンバーになった。1888年末に引退してイギリスに渡り、1896年に70余年の生涯を閉じた。■スキームの仕組みネピアン川にはカタラクト川、コルドー川、エイボン川という3つの支流がある。アッパー・ネピアン・ウォーター・サプライ・スキームの仕組みは、まずコルドー川とエイボン川がネピアン川に合流後、高さ3mのフェーザント・ネスト堰で分流され、延長7kmのネピアン・トンネルを通り、カタラクト川にある高さ3.5mのブロートンズ・パス堰に水が送られる。この堰から分岐された水が、総延長19kmのトンネルと合計1kmの水路橋部を含む延長64kmのアッパー運河を自然流下してプロスペクト貯水池に運ばれる。このアッパー運河は現在でもほぼ変わらCivil Engineering Consultant VOL.274 January 2017025