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写真3トンネル開通前に使われていたブライドルの細道写真4リトルトン港全景ティーブンソンの息子であるロバート・スティーブンソンは、すべての場所へのアクセスが最短という理由で直線ルートを支持した。工事期間は、直線ルートが5年かかるのに対し迂回ルートは3年でできる。一方、直線ルートの工事費は、迂回ルートに比べて32%削減可能で、メンテナンス費用も安くなるとした。その結果、評議会はスティーブンソンの提案を受入れ、彼に英国の工事業者が入札に参加するよう要請した。■困難な工事カンタベリー州政府は英国のジョン・スミス&ジョージ・ナイト社と5年でプロジェクトを完成させる契約を締結し、1859年末にはエージェントとチーフ、そして掘削者12人がニュージーランドにやって来た。掘削者たちは早速トンネルの両側から掘削を開始した。するとリトルトン港側の掘削者が、仕様書に記載されていたよりも岩盤が硬く工事の難易度が上がったとして、追加費用30,000ポンド(現在の約21億円)を要求した。そのため州政府はこの会社との契約を打ち切ることを決め、ムーアハウス知事は改めて工事業者の入札を行うこととした。また、トンネル工事を完成させるために外国の業者には委託しないことと、評議会で資金調達の目処が立つまでは工事を実施しないことを決めた。その後ドブソンが「トンネル工事が難航しているのは岩盤の硬さではなく、漏水が原因である」とするレポートを発表し、地質学者のジュリアス・フォン・ハーストも同意した。ドブソンはトンネルの両側で追加の立坑を掘り、漏水を排出させることを提案し、ハーストは多数の溶岩層からなるトンネル地質断面図を完成させた。トンネル掘削時に明らかにされたこの周辺の地質は、全174層もの火山噴出物から構成されていた。さらにこれらの地層の割れ目にマグマが貫入して板状に固まった32枚の岩脈も認められた。1861年7月、州政府はオーストラリアのジョージ・ホームスと契約し、ヒースコート側のトンネル工事を再開した。1860年代半ばのアメリカ西海岸のゴールドラッシュにより労働者の獲得は難しい状況となっていたが、英国の鉱山労働者を含めて約170人の労働者が雇用された。トンネル工事は手作業で行われ、岩盤をドリルで穿孔し火薬を装填して発破した。トンネルの掘削ズリは、リトルトン港西側のアースキン岬の海岸の埋立てに利用された。掘削速度は約1.7m/日で、貫通時にはリトルトン側の切羽に火薬を装填し、ヒースコート側の切羽に割れ目を生じさせた。こうして、1867年5月24日の朝、リトルトン側の坑夫がヒースコート側に向けドリルで穴をあけ、長さ2,520mの単線トンネルが貫通したのである。ドブソンの測量により、両側のずれは数cmだけだった。トンネルはリトルトンに向かって約3.75‰の下り勾配だ。■トンネル開通によって1867年11月18日に、最初の試験列車がこのトンネルを通過した。12月9日の朝9時には、最初の乗客を乗せ蒸気機関車に牽引された列車がクライストチャーチ駅を出発した。リトルトンまで30分、トンネル通過は6分30秒足らずのため、煤煙に対する苦情も少なかった。休日には「トンネルを通ってみたい」と言って、リトルトンの人口の1/3近い約2,000人の旅行者が訪れた。クライストチャーチ市街地とリトルトン港を繋ぐこのトンネルは、カンタベリー地方の経済的な発展に、歴史上最も重要な役割を果たした。人や物の輸送が容易にできるようになっただけでなく、港で働く人がクライストチ030Civil Engineering Consultant VOL.274 January 2017