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図1建設当時の一般図紛争が続いていたこともあり、ニュージーランドは国として衰退傾向にあった。19世紀後半になるとニュージーランドも本国イギリスの産業革命の影響を受け、全国的に鉄道や道路網が整備され、冷凍技術の革新によりヨーロッパ向けの食肉の輸出ができるなど、徐々に国としての力をつけ始めた。そしてついに1907年、イギリスから自治領として認められ事実上一つの独立国として歩み始める。この間、オークランド市はウェリントン市に政治の中心地を奪われたものの、ニュージーランドにおける商工業及び経済の中心都市として急速な発展を遂げ、移民により人口が急増するようになった。■グラフトン橋の歴史的背景1880年代、オークランド市がこのような発展を遂げ都市が拡大していくなかで、グラフトン渓谷の存在により行き来が困難であった西側の市中心部と、東側の市立病院や公園との間を結ぶ橋の必要性が高まってきた。そして1884年、初代グラフトン橋となる木製歩道橋が完成したのである。しかしこの橋の揺れはひどく、金属ボルトの腐食が進んだこともあり、馬車などが通れる本格的な橋の要望が強まった。1904年、オークランド市長アーサー・マイヤーズは「オークランド市の人口は今後20年間で倍増し、その膨大な需要を処理するには、広幅員の立派な道路橋が必要である」と主張し、反対者たちを説得した。結果として片側1車線ほどの幅員しかない道路橋となったが、彼の主写真1施工中のアプローチ部写真3施工中の舗装面写真2施工中のアーチ部写真4市民で賑わう開通式張が正解であったことを歴史は物語っている。マイヤーズは今では観光名所にもなっている市庁舎を始め、水の給排水や発電などの市の都市基盤整備に尽力を注いだ。晩年、故郷イギリスに戻る際には「悲惨な出来事」として市民が嘆くほど、オークランド市にとって欠かすことのできない偉大な人物であった。グラフトン橋の設計とデザインはコンペにかけられ、アメリカの会社による鋼橋とオーストラリアの会社による鉄筋コンクリートアーチ橋の2案が上がった。オークランド市の土木技術者ウォルター・アーネスト・ブッシュはこの2案を比較検討し、鋼橋の建設費は安かったものの、長期的な維持管理費を踏まえ、総合的に安価となる鉄筋コンクリートアーチ橋を採用したのである。ブッシュは、今では当たり前となっているオークランド市全域の道路・建物境界・水道・ガス管等の配置図をCivil Engineering Consultant VOL.274 January 2017033