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図1都市移転の構想・イメージの図化図2当初戦災復興計画・街路計画図3当初戦災復興計画・公園緑地計画り、一方でなにがしかの供給源があるとき、際どい形での商業活動が繰り広げられることとなった。日本警察当局と行政は、圧倒的な生活者の需要と、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からのヤミ市禁止指令や不法行為の取締の役割という狭間で、処していったのである。警察やヤミ市対策担当が、このような非常時に厳格な取り締まりだけをしていたらどうなっていたであろうか。ここに独特の戦後復興過程があったといえよう。なぜ戦後混乱期に復興構想が提起されたか広島の特徴として、行政的な戦災復興計画が策定される前後に、関係者からだけでなく、市民や外国人からも、多くの復興構想が提起されたことがある。構想をまとめてみると、約40件が把握でき(表1、2)、その内容は多岐にわたり、都市移転の構想、河岸緑地の構想、地盤嵩上げの構想といったことが目に付く。まさに食糧も衣服も、住むところも十分でないような時代に、かくも多くの構想提案がなされたのは何故であろうか。要するにアイデアや発想は、必ずしも物質的な基盤の上にだけ成立するのでなく、精神性の賜物であるということではないか。戦時下の制約条件が無くなったことの最大の成果であろう。日頃不合理と思われていたことへの改善提案などで、構想が膨らんだのであろう。この時の日本人は輝いていたといえる。外国人からの構想提案したひとりにS.A.ジャビーがいる。彼は英連邦軍所属のオーストラリア軍少佐として呉に駐留していたが、1947年9月から復興顧問として広島市役所に勤務し、いくつかの主張を繰り返すこととなった。被爆遺跡、特に原爆ドーム保存に関する提案は、結果的に後の原爆ドームの保存へと繋がった。戦後の早い段階で、復興顧問のジョン・D・モンゴメリー、ワシントン公園計画コンサルタントのタム・デ-リング、新聞通信社役員のマイルス・ヴォーンといった人たちからも自主的な提案がなされた。彼らの提案は啓蒙的な意図もあったかもしれないが、広島という著しい被害を受けた都市に対する同情や善意からでもあった。なぜ住宅建設の場所を公園用地に求めたか広島の復興過程を強く特徴づけることとして、被爆により軍組織と軍施設が壊滅した基町において、大規模な中央公園用地として決定され、そこに応急的な住宅が建設されたことである。さらに川沿いには粗末なバラック住宅の建設が不法状態で進められた。住宅不足は限度を超えていたのである。この期に建てられた粗末な建物はその後に老朽化し、環境悪化を招き、復興を終了させるためにはそのまま放置しておけなくなった。こうして、住宅を集約して公園用地を確保するという基町地区の再開発が大きな課題となっていく。復興計画・事業の枠組みは機能したか1945年11月、内務省から独立して戦災復興院が設立され、同年12月30日に「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定し、翌年9月には特別都市計画法を制定した。広島も全国で当初指定された115戦災都市の一つであった。戦後の混乱期にあっても、戦前からの都市計画制度や官僚システムは堅持され、機能したのである。広島の復興計画策定と復興現象とはなにか広島市における戦災復興計画は、当初広島県都市計画課が対応したが、1946年1月に広島市復興局が設立され、同年2月になって復興審議会を設置して、広く知恵を集めて復興計画を審議・議論することになった。復興審議会では、3~6月ごろ最終案に近づき、街路計画を内定し、公園、緑地、墓苑の位置や形・面積がほぼ確定した。併せて復興事業の根幹手法である土地区画整008Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017