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特集交通手段?あなたは何で移動する??1近代以降の交通手段の変遷と私たちの生活・文化大島登志彦OSHIMA Toshihiko高崎経済大学/経済学部/教授鉄道史学会/会長大昔の移動手段といえば徒歩であり、現在でも基本的な交通手段である。やがて人間社会は発達し、船、自動車、鉄道、飛行機など、現在では多くの交通手段が存在している。私達の生活・文化とともに発達してきた交通手段の変遷に迫る。明治初旬まで(第1期)の交通手段の概要交通手段の変遷は、歴史の一端として、概説的に各方面で語り継がれてきたが、系統だった考察や学術研究は乏しかったと考える。すなわち、交通史学においては、研究の主体が長らく近世以前が主体だった上、交通の発達というより、ある時代の交通事情の一端(特定の街道や宿場、助郷等)を解明する研究が多く、数百年に亘る変遷を捉えたり、時期区分する傾向は弱かった。また、鉄道史学では、近代以降の鉄道建設に関わる研究が多く、市民がそれを如何に利用して文化が発生したか、という立場の研究は少なかったと考える。筆者は、20世紀初頭以降、百十数年間のわが国の路線バスの歴史的変遷の研究を通して、国内の交通機関の利用目的や傾向を考察したうえで、観光と関わる近代交通の変遷を時期区分して考察してきた。歴史的に交通手段を捉えていく認識や観光の原点などを捉えることは困難と考えるが、陸上輸送に関しては、近世以前は、概ね徒歩と畜力に頼っていた。江戸時代には、街道整備や参勤交代などが進み、今日の交通手段の原点に繋がったといえるし、松尾芭蕉の『おくのほそ道』や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』等、伊能忠敬の日本地図の作成も含めて、国民の国土や地形、観光等に対する好奇心は強かったと考える。社寺参詣や湯治も、近代交通機関の整備を促したことは確かであろう。また、貨物輸送は、北前船や樽廻船などの内航海運が、重要な役目を担っていた。本稿では、苦難を伴う移動で到達するのが精一杯だった近代黎明時から、航空機や新幹線・高速道路網が拡充されて、日本列島が日帰り移動圏に組み込まれて、移動の苦難がほとんどなくなった今日までの国民の主要交通手段の変遷を、5つに時期区分(表1)して、特徴やキーワードなどを盛り込みながら概観する。併せて、利便の向上と高速化された日本の交通体系の特徴やその弊害等を、観光開発も含めて考察していく。明治初期の富国強兵・殖産興業の国策の中で、1872年、新橋-横浜間にわが国で最初の鉄道が開通すると、国内の主要鉄道網や道路網が整備されていく。それが近代交通の走りとなっていくので、1880年頃を境に近代交通以前の第1期と、それが黎明する第2期に区分できよう。明治中期から大正期にかけての交通手段の概要(第2期?第3期)国土を縦貫する幹線鉄道網は、明治前期の財政難から、一部私鉄に頼る路線もあったが、急速に整備されていく。また、現在の大手私鉄に繋がる電気軌道や電灯会社が、温泉や社寺参詣地を鉄道で繋ぐ傾向にあった。大都市やその近郊都市間では、馬車軌道が発達するが、1895年に京都市内で電車が開業した(写真1)のを契機に、各地で市内電車が導入されていく。交通機関の発達やお雇い外国人が保養する習慣等にも刺激されて、病気療養の湯治やサナトリウムでの滞在も盛んだったといわれる。また、石川啄木や与謝野晶子、若山牧水などの有名詩人が、全国各地を探訪して多くの詩歌を詠んできた。路線バス(当初は乗合自動車と称していた)は、1903012Civil Engineering Consultant VOL.280 July 2018