ブックタイトルConsultant280

ページ
17/78

このページは Consultant280 の電子ブックに掲載されている17ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant280

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant280

・同年初登場した特急の停車駅は上野・高崎・横川・軽井沢・長野・直江津・長岡のみだった・高崎-長野間は特急でも2時間半(北陸新幹線長野開業直前の普通列車と同等)、そのうち横川-軽井沢間だけで50分を要していた・列車には1・2等車、主要駅に弁当・洗面所・赤帽の記号があり、多くの駅で電報を扱っていた1961年10月国鉄監修時刻表(日本交通公社1977年復刻)を転載図2 1961年の主要幹線(信越本線)の時刻表鉄道交通も、新幹線の建設や幹線鉄道で線形の改良や電化が進められて、特急列車の増発も相まって、大幅なスピードアップと近代化が図られた。そして、国鉄の分割民営化(1987年)頃までは、鉄道が幹線交通の主導だという認識は続いたと考えるが、国鉄の相次ぐ運賃値上げや累積赤字の増大、春闘による列車の運休等が重なって、鉄道利用への志向は弱まっていった。すなわち、夜行列車や食堂車・駅弁等を含む鉄道旅情は、自家用車利用の家族旅行や航空機などに押され、若者の周遊券やユースホステルを利用した節約型鉄道旅行は、高速バスに侵食されていく。輸送密度の低い国鉄ローカル線は、気動車の導入で快適になったが、自家用車の普及で成人の利用は激減し、高校生などの通学と高齢者の通院目的などに限定されていく。また、道路整備や宅配便の普及で、鉄道による貨物輸送は激減し、国鉄再建計画の一端で、特定地方交通線として、国鉄・JRから経営分離されていった。航空交通は、成田空港が地元の根強い廃止運動の中で開港が遅れていたが、海外旅行ブームにも後押しされて、大幅に拡充された。国内旅行も、国鉄運賃などの相次ぐ値上げも含めて、時間短縮の要望や航空運賃の割高感が軽減されたことなどから、航空機利用は大衆化して、首都圏から新幹線網以遠の主要都市への移動は、大方が航空機利用にシフトしていった。高速道路や新幹線、航空機が国民の交通手段に仲間入りした頃の1960年代には、「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」という標語がはやり、一辺倒で進む高速化や多忙性を牽制する世論も残っていた。しかし、日本の経済発展の根底にある「時は金なり」の発想を当然とする社会に移行し、高速性のみを重視した交通手段が、次々に整備されていった。Civil Engineering Consultant VOL.280 July 2018015