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側径間中央径間側径間図2忠節橋一般図写真1 3代目の忠節橋され、県管理の無料橋となった。その後架け替え案の承認を得て、1912(明治45)年には3代目忠節橋が架けられた。3代目は木鉄混用のプラットトラス橋で、斜材や橋脚などに鉄を使っていたが大部分は木材の橋であった。総工費5万1735円は県費により捻出された。特にその恩恵を受けたのは、長良川北側の農家だった。大根等の農作物を岐阜駅から各方面へ出荷するために、それらを大八車に載せ朝早くに忠節橋を渡り、そして帰りには耕作に必要な下肥を岐阜の町なかで集めて、忠節橋を渡ってそれぞれの村々に戻っていったのである。■架け替えの歴史江戸時代にはこの場所に橋は無く、長良川を渡るには渡ごうどし船に乗る必要があった。長良川には中山道の「河渡の渡すのまたたかとみし」、美濃路の「墨俣の渡し」、高富街道の「長良の渡し」など街道沿いを中心に多く渡船場が存在していた。現在の忠節橋付近にも「忠節の渡し」があり、長良川の両岸を往来するための足となっていた。めいしち明治時代に入ると、1874(明治7)年に明七橋(現在の長良橋)、1881(明治14)年に河渡橋などが長良川にも架けられていった。商工業が発展するとともに岐阜町(現在の岐阜市中心部)と長良川の北側地区の農村などから新たな架橋が求められるようになり、1884(明治17)年5月に出資者10名ほどで会社が設立され、初代忠節橋が架けられた。長さ約178m、幅約3.9mの木橋であり、総工費は6,500円(現在の金額で約2億6千万円)であった。橋では人は5厘(約200円)、馬や人力車は2銭(約800円)の通行料を取っていた。1898(明治31)年には忠節橋橋梁株式会社により架け替えが行われた。この2代目忠節橋も木橋で、初代よりも少し下流側に架設された。この橋も通行料を取っており、人々から「賃取り橋」と呼ばれていた。無料で通れるのは通学する小学生のほか、緊急を要する公務の人たちだけであった。通行料はかなりの負担だったらしく、渡し船を利用する人も多かった。1906(明治39)年に県会で忠節橋買上げ意見書が承認■戦前や戦時中の架橋計画3代目の忠節橋も1930年代になると老朽化が甚だしくなり、交通量の増加による荷重に耐えられなくなると懸念されていた。また長良川改修により旧右岸堤が除去されることになり新橋架設が迫られたこともあり、1937(昭和12)年に県会にて架け替えが承認された。4代目忠節橋の第一次計画は、上部工を鉄筋コンクリート桁として1939(昭和14)年1月に着工した。1942(昭和17)年9月には橋台や橋脚などの下部工のみ完成したが、第二次世界大戦により鋼やセメント等の主要資材の入手が困難となり、工事は一時中断せざるを得なかった。しかし時局による輸送力増強の必要性から、すでに建設されていた橋脚の間に新たに木造橋脚10基を設けて、これに軌道橋と道路橋を並列で架設する第二次計画が進められた。1944(昭和19)年7月に工事を開始したが、翌年7月9日の岐阜空襲により橋梁用木材の大部分が焼失して、工事は再び中断した。この間、3代目忠節橋は修繕を重ねてかろうじて戦時中の酷使に耐えてきたが、主要部材の腐朽は著しく、いくら修繕しても常にいくつもの穴から川面が見えている状態であったため、早急な新橋架設が望まれていた。■第三次計画による4代目忠節橋1945(昭和20)年に終戦を迎えると、将来の交通量増加Civil Engineering Consultant VOL.280 July 2018045