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施工は株式会社横河橋梁製作所によって行われた。出水期の翌年夏までに完成させるべく工事を進め、通常であれば全径間の組み立てが終わってからリベット接合するのが理想的ではあるが、組み立てを終わった部分からリベット接合を行うなどして工期短縮に努めた。天候にも非常に恵まれ大きな中断もなく、1947年11月22日~翌年7月31日の253日写真8 忠節橋を渡る岐阜市内線写真9岐阜城からみた忠節橋で作業を中止したのは9日間だけであった。そして1948(昭和23)年8月1日、資材不足と空襲による戦時中の2回の中断を経て、新橋がようやく完成したのである。総工費は当時の金額で、戦中に施工された下部工は約21.6万円、戦後に施工された上部工と付帯施設等は6700万円となっている。戦中の物価変動により、その価格には大きな開きがある。使用した鋼材は約2,000t、使用したリベットは30万本以上であった。また当時の工事の規模や工期と比較して労働災害の数も少なく、重軽傷者5名にとどまった。橋は道路専用橋となった。忠節橋は道路管理者の岐阜県により、通常の橋梁と同様に5年に一度の定期点検を行うと同時に、橋梁長寿命化修繕計画により歴史的橋梁として健全な状態で将来へ残していけるよう維持管理されている。2018(平成30)年8月で70周年を迎える忠節橋はまだまだ現役で使い続けられていくだろう。長良川の鵜飼や岐阜公園、金華山の山上に建つ岐阜城は岐阜市内の定番観光ルートである。天気が良いと岐阜城から、岐阜市内を蛇行して流れる長良川と、そこに架かる忠■大盛況の完工祝賀式忠節橋は完成当時、終戦後の日本で建設された最長の鋼橋であった。忠節橋の完工祝賀式には、新橋の晴れ姿を見ようと長良川両岸に5万人の大観衆が集まった。祝賀式は建設大臣代理、関係自治体の首長、県選出の国会議員、県市議ら600人以上の来賓が参列して執り行われた。県知事に続いてに来賓の行列が忠節橋上に姿を現すと、両岸の節橋のなだらかな曲線を描く流麗で洗練された姿が望める。ただそれだけで満足しては少しもったいない。少し足を伸ばして忠節橋を間近で見ると、巨大で無骨な鋼材に圧倒されるような、そんな雄々しい面も見ることができる。見る角度や陽の光によりそれぞれ表情の異なる忠節橋も見られるので、岐阜に行くのであれば一度近くに行ってその目で確かめて欲しい。大観衆は熱狂して歓喜の声と拍手を浴びせた。式後には素人演芸会や魚釣り大会、相撲大会などが行われ、さらに夜には岐阜市制施行60周年記念の花火大会が開催されるなど、忠節橋一帯は終日賑わっていた。この盛況ぶりからもいかに望まれていた橋であったかがよくわかる。それまで長良川の右岸と左岸にはそれぞれ名古屋鉄道いびの揖斐線と岐阜市内線の駅があった。忠節橋の完成と同時に左岸側の岐阜市内線が忠節橋を渡って長良川右岸まで延伸し、1954(昭和29)年には揖斐線と岐阜市内線の直通運転を開始した。これにより路面電車による移動が便利になり、通勤通学に電車を利用する人にも大変喜ばれた。<参考資料>1)『忠節橋架設工事概要』河瀬令二・涌井義貞、土木技術第3卷第12號、1948年12月、土木技術社2)『ふるさとの歴史こぼれ話Vol.6長良川・忠節橋物語』後藤征夫、VIVO2012年春号(第29号)、2012年、岐阜ルネッサンスクラブ3)『運命を分けた二つの併用橋犬山橋と忠節橋(特集名古屋鉄道)』半野久光・志光茂著、鉄道ピクトリアル59(3)(通号816)臨時増刊、2009年3月、電気車研究会4)『忠節橋Project-川の記憶のデザインIV-』今井裕夫、岐阜市立女子短期大学研究紀要第56輯、2007年、岐阜市立女子短期大学5)『長良川における橋梁空間の歴史性に関する検討』石田元章・秋山孝正、土木史研究第20号、2000年5月、土木学会6)『ふるさとの思い出写真集明治大正昭和岐阜』丸山幸太郎・道下淳、1983年3月、国書刊行会7)『岐阜県道路史』岐阜県土木部、1992年、岐阜県建設技術センター8)『ぎふ早田郷土誌』ぎふ早田郷土誌編纂委員会・岐阜市早田広報連合会、1970年9)『岐阜県戦後50年世相史』岐阜県戦後50年世相史実行委員会、1995年、岐阜新聞社10)『時代を越えて生き続ける最北の名橋「旭橋」』浅見暁、Civil EngineeringConsultant246号、2010年10月、建設コンサルタンツ協会■現在、そしてこれからの忠節橋昭和40年代に入ると自動車の交通量が増え、朝夕の忠節橋は大混雑状態となった。また自動車の普及とともに電車利用者が減少していった。2005(平成17)年に岐阜市内線と揖斐線が廃止となり、軌道も2006年に撤去され、忠節<取材協力・資料提供>1)岐阜県岐阜土木事務所<図・写真提供>図1作製:株式会社大應図2、写真1、2、3岐阜県岐阜土木事務所P40上、写真6箕輪知佳写真4佐々木勝写真5熊井彩乃写真7、9塚本敏行写真8田中義人Civil Engineering Consultant VOL.280 July 2018047