ブックタイトルConsultant281

ページ
14/62

このページは Consultant281 の電子ブックに掲載されている14ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant281

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant281

特集熊本?阿蘇山との結びつき?2加藤清正の遺構「鼻操り井手」大本照憲OHMOTO Terunori熊本大学大学院先端科学研究部教授日本三大名城に数えられる熊本城を築いた加藤清正は、治水・利水の名手でもあった。清正は多くのかんがい灌漑施設とともに、阿蘇山からの流出土砂や洪水への対策などの多くの土木工事をおこなった。今も熊本に残る「鼻操り井手」の仕組みを紹介する。加藤清正の遺構加藤清正は、豊臣秀吉から肥後の統治を任された1588年から亡くなる1611年の23年間に、現在熊本の一級河川である菊池川、白川、緑川および球磨川の4河川に対して創意工夫の施された数多くの治水・利水事業を精力的に展開した1)。その中の一つに、白川の中流域はなぐに設けられた灌漑用水路の鼻操り井手がある。古文書2,3)には、1608年頃に当時畑作地帯だった白川下流の左岸側台地を新田開発するためには、難所である中須山を長さ215間(390m)に亘って深く掘削し、農業用水路を通す必要があったと記されている。さらに、白川は河床材料として阿蘇山から放出された新規火山灰(ヨナ)を持ち、洪水時には大量の火山灰が用水路に流れ込むことが予想され、深く掘削された水路に火山灰等が堆積すれば通水能力を低下するため土砂の堆積を防ぐ必要があった。また、地形が急峻な岩山にあって、深く掘削された水路から堆積した火山灰を人力によって浚渫することは、過酷な作業となる。そのために、ヨナの堆積を防ぎ、安定した流量を確保することを狙って考案された農業用水路は清正独特の工法とされ「鼻操り井手」と呼ばれている。なお、水路に対して鼻操りという呼び名が付されたのは、岩山をくり抜いたアーチ状の石橋の形状が「牛の鼻輪」に類似したことによる。鼻操り井手図1『勝国治水遺』に示された鼻操り井手に関する古文書は歴史研究家4)によって調査され時代背景は明らかにされているが、その形状および水理学的機能についてはあまり検討されていない。本論では、現地踏査および水理模型実験により鼻操り井手の形状、大きさ、水理学的機能および土砂輸送能力について述べていく。鼻操り井手の役割と現状鼻操り井手について説明した文献として最古のものに、江戸時代末期に肥後藩主の命により加藤清正の治かのこぎりょうへい水・利水事業を調査した総庄屋の鹿子木量平によるとされる『勝国治水遺』2)がある。図1は『勝国治水遺』の付図に示された鼻操り井手の概略、図2は平板測量から得られた鼻操り井手の平面図である。012Civil Engineering Consultant VOL.281 October 2018