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西松原(導流堤)御山厳島港厳島神社白糸川有の浦通常砂防紅葉谷川庭園砂防(流路工)L=1,392m(NO.1)H=4.0 L=34.0(NO.3)H=4.5 L=18.0(NO.5)H=4.0 L=28.0(NO.7)H=7.0 L=27.0(NO.9)H=8.0 L=37.5(NO.11)H=2.5 L=18.5(NO.13)H=7.0 L=30.0(NO.15)H=6.0 L=30.0図1紅葉谷川周辺図(NO.10)H=5.5 L=18.5(NO.12)H=4.0 L=22.0(NO.14)H=8.3 L=39.5(NO.2)H=2.5 L=30.8(NO.4)H=6.0 L=30.0(NO.6)H=5.5 L=23.0(NO.8)H=4.0 L=26.0害を及ぼした。宮島でも、紅葉谷川をはじめとする複数の河川で土石流が発生し、上流部から流出した巨石と大量の土砂が、当時の砂防堰堤を破壊し、周辺の旅館や家屋を巻き込み、紅葉谷川の下流部に位置する厳島神社の社殿を蹂躙した。境内に流れ込んだ土砂は、約18,000m 3にも及んだといわれている。しかし終戦直後の状況下、大規模な自然災害からの復旧は困難を極めた。翌年11月27日の国会においても、「先年の洪水に依つて土砂に埋もれました嚴島神社の社殿の如きは、ままほうじじつ未だに其の儘抛つてある事實を諸君も御存じの方もあるかと存じます」(團伊能貴族院議員)など現状を嘆く意見が示されており、土砂の撤去すらままならない状況が1年以上に渡って続いていたのである。■GHQ/SCAP文書から見られる復興に向けた動きだが被害を受けた人々は決して手をこまねいていたわけではなかった。地元自治体や関係者は復興にむけた取り組みを始めており、その中で一つの役割を果たしたのがGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)の民間情報教育局美術記念物課長のチャールズ・F・ギャラーであった。国会図書館に保存されているGHQ/SCAPの文書から、宮島の復興に向けたギャラーらの当時の動きを伺い知ることができる。ギャラーは日本語に堪能な士官として1946(昭和21)年後半にGHQ/SCAPに赴任する。着任後早々、全国の神社の視察を行っており、宮島に赴いたのは同年11月16日のことである。土砂に埋もれた厳島神社や周辺を視察したギャラーは、風光明媚で知られた宮島の惨状を嘆き、その場で復旧にかかる費用を試算するよう指示した。半月後の12月7日、厳島神社宮司の野坂元定から「厳島神社風水害復旧整備に関する嘆願の件」がギャラーに送られる。これには、「莫大な費用が掛かりますので当社の力だけでは到底できないことで…(中略)…とかく実施は困難と思いますが、兎も角別紙の通り提出致しますから御検討下さって、何かの御同情と御援助とをお願い致します」と切々とした文章が綴られている。また神社の建造物に関する復旧費として74万4210円、土砂の撤去費として90万円が示されており、復興にむけて土砂の除却が大きな障害となっていることが記されている。くすのせそして1947(昭和22)年7月18日、広島県知事の楠瀬つねい常猪から“Restoration of Damaged Itsukushima Isle andItsukushima Shrine”がギャラー宛に改めて提出された。この文書には楠瀬の他、野坂宮司と宮郷忠兵衛厳島町長の連名の請願が付されており、紅葉谷川を含む周辺河川の砂防工事に関する予算書や予備設計の図面も添付されていた。また翌月の19日には「廣島縣厳島町の災害復旧工事に関する請願」が国会にも提出されており、復旧にむけた動きが具体化していった様子が伺える。これらを受けてギャラーは、日本政府の役人を呼び出し、再三にわたる協議を行ったようであり、協議の結果を1947年12月15日に野坂宮司らに向けて返信している。日本政府の経済安定本部や文部省の反応として、“Most of thesegentlemen were sympathetic…(中略)…it would probablybe impossible to get money this year”と今年の予算獲得は困難と記しているが、同時に“The Ministry of Educationpeopleseemedquitehopefulaboutnextyear”として文部省写真2 1947年7月に野坂宮司・宮郷町長から提出された請願書(下に両名のサイン)Civil Engineering Consultant VOL.281 October 2018043