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図2岩石公園築造趣意書図3完成イメージを共有化するために作成した絵図(春の図(部分))は翌年の予算獲得には好感触を示しているとの内容である。最終的には1948(昭和23)年に文部省の史蹟名勝災害復旧の事業として、紅葉谷川を含めた厳島神社周辺の復旧工事費の支出が決定したのである。■復旧事業の開始1948年8月15日に工事事務所が設置され復旧事業がはじめられた。事業は1948~1950(昭和23~25)年度の3カ年度にわたって実施されたが、まず問題とされたのが、厳島神社を含む紅葉谷川下流部周辺を覆いつくす土砂の撤去である。実は1946年12月の野坂宮司による文書にも土砂の撤去に関する提案がなされていた。神社周辺を埋め尽くしている土砂を用いて、河口部の州浜を埋立延伸して導流堤となし、新たな水害の発生を防ぐ手立てとする内容であった。撤去した土砂を州浜の埋立に用いることで、撤去事業を公共の負担として実施することができ、神社本体の復旧を支援することにもつながったと思われる。歴史を振り返ると、江戸時代中期の1739(元文4)年にも同様の工事が行われており、過去の歴史に倣った提案でもあった。■庭園砂防の取り組み土砂の撤去後は、紅葉谷川本体の砂防をどのように整備するかが課題となった。名勝の復旧工事ということもあり、通常の砂防工事ではなく、史蹟にふさわしい姿での復旧が求められた。復旧に際して史蹟名勝厳島災害復旧工事委員会が組織されたが、砂防関係者だけでなく、関東大震災時おりしもよしのぶに公園分野の復興を手掛けた折下吉延や造園・庭園学のにわていぞう大家である丹羽鼎三などの専門家が加わった。紅葉谷川の砂防を、「庭園砂防」と称される日本庭園風の砂防施設とすることは委員会方針として定められたものの、実現手法は手探りの状況であった。コンセプトともいえる「趣意書」が作成され、現地の素材をそのまま用いて施工することは決まったが、どのようにすれば砂防と景観を両立させることができるのか、だれもノウハウを持ちえていなかった。これを実現させたのが、砂防課長の坂田静雄ら県の技術者たちである。坂田は、戦中は満州にも赴任していたこともある技術者であり、復旧事業開始直前の1948年5月に生まれ故郷の広島に赴任し、紅葉谷川をはじめとする砂防事業に取り組むことになった。庭園砂写真3庭園砂防内の流路工防の実現にむけて、現地を歩いて構想を練り、図面とともに絵図(春の図・秋の図)やスケッチを作成し、絵により完成イメージを共有化して工事に当たることとした。さらに景観の知見を得るために、京都など各地の庭園を視察して日本庭園づくりのノウハウを収集するとともに、折下や丹羽らの指導も交えつつ、工事では日本庭園の庭師に担当してもらい、石の配置を現場で一つ一つ確認していく方法で施工が進められていった。土石流により上流から運ばれてきた巨石も、「かぐらさん」と呼ばれる装置を用いて人力で移動させるなど、庭師の技術と知見を現場で組み込みながら工事を進めていった。単調な風景とならないよう、紅葉谷橋を境に上流と下流に分かれて2人の頭だった庭師が担当し、上流が「動」、下流が「静」と異なるイメージで築造する工夫も取られていったのである。■砂防と景観の両立1951年3月に完了した紅葉谷川の復旧には、名勝に相応しい優れた景色を創出するだけでなく、当然砂防の機能を有している必要があった。宮島は、島自体が主に花崗岩で形成されており、花崗岩の巨石が山腹に多く存在するととも044Civil Engineering Consultant VOL.281 October 2018