ブックタイトルConsultant282

ページ
12/64

このページは Consultant282 の電子ブックに掲載されている12ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant282

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant282

Otaru Canal - the symbol of Otaru’s evolving legacy形を変えて受け継がれる小樽のシンボル「小樽運河」北海道小樽市特集土木施設の転用Special Features / Conversion of civil engineering facilities散策路から望む小樽運河と石造倉庫セントラルコンサルタント株式会社/東京事業本部技術第1部/道路第2グループ飯塚理恵(会誌編集専門委員)IIZUKA Rie■運河とともに歩む小樽「小樽」といえば、多くの人が運河や石造の倉庫、レトロな街並みを思い浮かべることだろう。今や小樽の代名詞とも言えるこの景色が、消失の危機に瀕していた時代があったのである。明治~大正期、北海道開拓の玄関口として繁栄した港湾都市小樽。その後、時代の波にのまれ低迷していくことになる。しかし、ある議論が沸き起こり、港湾都市から観光都市へと変貌を遂げた。その鍵を握るのが小樽運河である。建設当時の運河は幅40mあり、港湾機能の一部を担う施設であった。その後、役目を終えた運河は、現在では半分が道路となり、20mに狭められた現在の形となった。歴史的な価値があるものでも、時代の変化と共に失われていく事例も少なくない中、なぜ運河は、形は変わったものの残ったのだろうか。■港湾都市小樽の変遷明治維新を経て、蝦夷地から北海道へと改称され、道内各地では明治政府の政策である開拓が盛んに行われていた。そして、小樽の東側に位置する三笠市の官営幌内炭鉱で生産された石炭を、国内外へ輸出するための中継地となったのが小樽である。炭鉱から石炭を運搬するため、手宮~幌内間を結ぶ官営幌内鉄道が1882(明治15)年に全通し、小樽港で船に積み替えられ、道内外へ輸送されていた。石炭だけでなくニシン漁でも栄えた小樽港は、港の機能を拡充するため、大規模な海岸の埋め立てを実施し、1923(大正12)年に小樽運河が完成した。当時の運河は延長約1.3km、幅40m、水深は2.4mである。大型の貨物船は運河内に進入することが出来ないため、運河による荷役方式が採られた。これは港内に停泊しはしけた貨物船から、艀と呼ばれる荷物運搬用の平底の船に貨物を積み替え、艀で運河内を移動し、運河に面して建010Civil Engineering Consultant VOL.282 January 2019