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つ倉庫や工場に接岸して荷降ろしを行うものである。当時の港周辺には100棟以上の石造倉庫が立ち並び、北海道の物流拠点だけでなく、ロシアをはじめとする国際貿易港となった小樽には、日本銀行などの銀行や商社が軒を連ね、「北のウォール街」と呼ばれる商都となった。しかし、港湾都市や商都としての繁栄はそう長くは続かなかった。主要な産業でもあったニシン漁は徐々に漁獲量が減少し、第2次世界大戦後には樺太など諸外国との交易が途絶え、そしてエネルギー革命が起こり主役は石炭から石油へ移り変わった。また、太平洋沿岸地域での経済活動の活発化や苫小牧港の整備により、北海道の経済の中心は札幌へ移り、小樽は衰退していく。さらに、小樽埠頭の機能強化により、運河は役割を失った。小樽の繁栄を支えてきた運河は、その後、人々から忘れ去られ、ヘドロの溜まった悪臭の漂う水路へと成り果てた。写真1建設当時の運河と石造倉庫群■道道臨港線計画高度経済成長期、日本中で急速にモータリゼーションが進展し、大気汚染や騒音、交通渋滞等の問題が起きた。小樽も例外ではなく、深刻な交通渋滞が問題となっていた。当時、小樽を通過する幹線道路は国道5号のみで、本来2車線道路で許容出来る交通量の3倍もあり、道内でも有数の渋滞箇所であった。渋滞は物流や産業だけでなく市街地の商業活動にも悪影響を及ぼしており、市民からも慢性的な渋滞の解消が熱望されていた。1966(昭和41)年、小樽市は「道道臨港線」を都市計画決定した。国道5号の交通量を分散させ渋滞を解消、物流の円滑化、札幌自動車道へのアクセス強化等が目的であり、道路整備に期待を寄せる声も多くあった。この道道臨港線は、札幌自動車道入口から運河を通り稲北交差点で国道5号へ接続するルートであり、運河の北側を一部残し、南側の運河をほぼ全面的に埋め立てて6車線道路とするものであった。ルート上には、小樽の繁栄を語る貴重な史料でもある石造倉庫などの歴史的建造物がいくつも建っていた。渋滞解消のためにバイパス路線を計画することは一般的である。また、役目を終えて無用の長物と化した運写真2建設当時の運河俯瞰図1 1966(昭和4 1)年策定の道道臨港線ルート河を公共用地と捉えて有効活用しようとすることは、現在の小樽の姿からすれば考えられないことだが、当時の運河の状態からすれば当然のことだったのかもしれない。だが、これが小樽市民だけでなく全国の人々を巻き込む論争へと発展することになるとは、この時点では予想だにしなかっただろう。■運河論争臨港線の建設は札幌自動車道側から着々と進められ、運河の東側に位置し歴史的建造物も多く残ってい写真3小樽市指定有形文化財の日本銀行旧小樽支店Civil Engineering Consultant VOL.282 January 2019011