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図2可動堰の断面図者は曖昧である。堂島川可動堰の使われ方は潮の干満を利用し、満潮時に堰を閉めて堰の上流に河水を溜め、退潮時に下流側の水位が下がったところで堰を開いて他の枝川の流れを速め、塵芥その他の汚濁水を下流へ一掃しようというものであった。堰の操作は毎月干満の差が大きい旧暦の1日や15日前後の潮の高いときに各3日間行うが、昼間の航行の妨げにならないように午後8時頃閉鎖し、午前6時頃除々に開放することとなっていた。■可動堰たちの運命1936(昭和11)年3月に京町堀川可動堰が完成し、可動堰は6つになった。これらにより、流速は平時の4倍となり、滞留水がよく流れ、水質はかなり改善された。しかし、大きな流速により河底が洗掘されて護岸が損傷し、なまずえ補修工事が必要となった。ただし、上流の寝屋川、鯰江がわ川、平野川が汚濁しているため、その効果が十分発揮できていないと大阪市予算委員会で報告されている。戦時中、可動堰による水質浄化は中断していたが、機械や設備の補修を行い、1952(昭和27)年2月にまず道頓堀川可動堰の運転を再開した。続いて堂島川、土佐堀川、長堀川の可動堰の改修工事を行い、1955(昭和30)年3月にこれらの可動堰の運転を再開した。残る江戸堀川と京町堀川の可動堰は、戦争による被害が大きく復旧に多額の経費を要することが分かった。このため、高潮防御用の締切壁を河川両端に設置した後、河川が埋め立てられたことで廃止となった。後年、長堀川可動堰も当時の日本道路公団の駐車場建設に伴い長堀川上流部が埋め立てられたことで廃止となった。■寝屋川による汚染一方、昭和40年代になると、大阪市内河川の上流に当たる寝屋川水系の水質汚濁が進行し、その汚濁水が土佐堀川を経て枝川へ流入し、水質が悪化していた。そのため、全市的なクリーンウォータープランの一環として1978(昭和53)年3月に東横堀川水門を築造し、堂島川、土佐堀川、道頓堀川の可動堰と連動して東横堀川と道頓堀川の浄化を強力に進めていくことになった。そこで、大阪府の寝屋川口水門と大阪市の3可動堰を操作して、浄化用水導入の調査実験が行われた。結果として、東横堀川の高麗橋付近に水門を新設し、潮汐を利用して大川の維持用水を東横堀川へ導入し貯留すると、汚濁している寝屋川の流入を阻止できるとともに浄化に有効であることが確認された。これにより、東横堀川水門の設置が決定した。その浄化方法は以下である。1寝屋川からの汚水の流入が、潮汐変化による水位の上昇によって阻止される最満潮時を狙って3可動堰を開ける。このとき東横堀川と道頓堀川には大川の浄化用水が滞水する。2その後、引潮時にかかるときに、東横堀川水門と道頓堀川可動堰を閉め、両河川に清浄な水を貯める。3最満潮時以外の月に数日の引潮時に堂島川可動028Civil Engineering Consultant VOL.282 January 2019