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写真1戸尾市場街入り口とんねるが誕生するまでのおよそ15年間で、人口は実に10倍以上となり、急速に都市化した。ただし市民の人口構成は男性が女性の1.5倍以上となり、軍人も入れると極端に男性が多い街であった。人口が増えると、自ずと食料や日用品の需要が高まり、街も賑わいを見せていった。1892(明治25)年の佐かんこうば世保の地図では、現在の高砂町付近に勧工場の存在を確認できる。勧工場とは小売商店の集合施設のことであり、今で言うショッピングモールである。間もなく、500m程度しか離れていない現在の浜田町に2つ目の勧工場ができ、こうした勧工場が市場の前身となる。■勧工場から市場街へ大正期の日本は第一次世界大戦に参戦し、シベリア出兵をしている。大正デモクラシーの最中であり、九州では八幡製鉄所を中心にストライキが相次ぐ状況であった。そうした社会状況の中、米騒動が起こる。佐世保においても、海軍工廠の従業員をはじめとする群衆のデモが現在の三ヶ町商店街付近で発生。市当局は迅速に対応し、国の指針に基づいて1918(大正7)年より公設市場を順次設置する。同年の第一号市勢要覧には6市場が掲載されている。この流れで1935(昭和10)年、とんねる横丁近くに京町公設市場が開設されている。公設市場は屋内に数本の通路を設け、その両側に店棚を配置した一棟の大きな上屋を当局側で整備し、安く適正な商品を販売することを条件に、希望者に格安で敷地を貸し出すものである。商品が公正な価格で売られていることから市民には「マルコウ」と呼ばれ、適正な取引の確立に大きく寄与したようだ。横丁図1 戸尾市場街のとんねる横丁(佐世保市教育委員会の提供資料にとんねる横丁の範囲を加筆)この時期、政府は市場機構の近代化を目指す市場開設都市の指定を行い、1927(昭和2)年、日本初となる中央卸売市場が京都に開設している。この開設にあたっては佐世保の市場が大いに参考とされた。それは「1卸売市場と小売市場が併設されていた」「2市場業務は民間企業や個人に委託され、現在の卸売~仲買~小売の流通システムの原形があった」「3市は市場の適正な管理運営を行う」等が当時の先進事例であったためである。佐世保市にも1938(昭和13)年に日本で8番目となる中央卸売市場が開設された。このように佐世保は、近代日本の市場形成の面でも重要な役割を果たしてきたといえる。■第二次世界大戦と防空壕第二次世界大戦が始まると佐世保市には軍事施設がさらに集積し、1944(昭和19)年、市史上最大となる人口287,541人を記録。現在のとんねる横丁付近には、様々な露店が100m以上並んでいたようである。1943(昭和18)年初夏、行政は近郊の国民学校に防空壕掘削命令を発令。市が初めて空襲を受けた1944年(昭和19年)7月以降は、防空壕の掘削件数が大幅に増Civil Engineering Consultant VOL.282 January 2019031