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写真2無窮洞の主洞部分写真3 防空壕を利用したトンネル状断面の旧四軒目食堂(2 0 17年頃)える。掘削は陸海軍や市、町内会が主体となって行われたが、家族単位のものも多かったとされる。こうした防空壕の中で最大のものは、市南部の旧宮むきゅうどう村国民学校の子ども達が掘った無窮洞である。国民学校高等科(現在の中学1・2年生)男子がツルハシで掘り進み、女子が整形を、下級生が土の運び出しを行った。全校生徒600人余りが入れる防空壕だが、教室と教壇からなる主洞(幅5m×奥行19m)、書類室や台所・食料庫に通じる副洞(幅3m×奥行15m)等が整備されている。全員が避難すると酸欠状態になったことから、とうみその後は農具の唐箕で風を送ったようだ。地質が削りやすい凝灰岩であったことから子ども達でも掘り進められたのであろうが、その苦労とその作業に追い込まれたであろう日常の圧迫感は想像を絶する。後年、とんねる横丁に利用される防空壕は高さ3~4mの崖沿いに、幅3~4mで高さが2mの半円形の横穴7~8本が掘られ、それらが奥にある連絡トンネルで結ばれていた。誰が掘ったのか、誰が使用予定であったかは、確実なところは分かっていない。1945(昭和20)年6月29日未明、市街地は大空襲を受ける。死者1,200人以上、羅災面積約178万km 2、羅災戸数12,037戸(全戸数の35%)、羅災者約65,000人に及んだ。甚大な被害をもたらされた中で、とんねる横丁付近は奇跡的に戦火を免れた。■防空壕の店舗利用の始まり戦後の混乱期、戸尾市場街には露天やバラック建ての店が増大。とんねる横丁付近では、特に芋や団子などの食べ物の露店が多かった。市中心部では物資が極度に不足しており、食材となる芋や穀物類は汽車やぽんぽん船で周辺の島から運ばれていた。このような状況の中、役目を終えた防空壕は、空襲で家を失った人の住居や店舗として利用されるようになった。1946(昭和21)年、市は戦災復興都市計画を策定。戦後のまちづくりが動き始め、戸尾市場街の土地区画整理が決定する。とんねる横丁付近では道路整備の話が進められ、100m以上に及ぶ露店の営業が禁止された。しかし、行政側と生活のかかる露店側が対立し、事業はなかなか上手く運ばなかった。行政指導が厳しくなる中、防空壕を店舗スペースに活用する発想が生まれる。それには、市から道路の占用許可を得、土地の使用料を払うことで利用できるものとした。店の造りはある程度同じにすることになったが、「もっと奥行きが欲しい」と自己負担で掘る店舗もあった。場所によっては岩が堅いため石屋に掘削を頼まなければならなかった。例えば2016(平成28)年に閉店した旧四軒目食堂は高さ約1.8m、奥行き12~13mのトンネルになっており、奥にある座敷の小窓を開けると、防空壕当時の剥き出しの岩肌を見ることができる。当時、隣の店舗との仕切りはきちんとしたものがなく、障子で仕切っていた。入り口も閉店の際には、ベニヤ板を立てかけるなどで対応していた。1948(昭和23)年、もともとあった5本の防空壕に加えて、崖にいくつかの窪みを掘って、後に「とんねる横丁」と呼ばれる18店舗が開業した。開業当時は全て食堂で、市民の台所として、戦後の佐世保の食を支え大繁盛した。とんねる横丁のすぐ近くにも防空壕を利用した店舗がある。その一つの本田蒲鉾店によれば、「防空壕は気温と湿度が一年を通して安定していることから蒲鉾づく032Civil Engineering Consultant VOL.282 January 2019