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古代の土木技術の精華古墳は石室や石棺など石工とそれを覆う盛土の総合技術である。司馬の念頭にもあったが、築造技術には、石の加工でも土の締め固め方でも、渡来人を中心とした複数の系譜があった。渡来技術には、古墳造成技術の一環として伝わったものと、その後仏教とともに寺院造営に携わったものとで、石棺の材質や加工技法の異なる二派があった。石工は石の産地を根拠地とした技術者で、後には複数の山付き石工集団による分業・協業がなされた。盛土にも流派があり、畿内の先進的な流派の手法が各地を席捲していく。東日本の前期古墳では、墳丘盛土は中心の小さな丘状の高まりから外側へと高さ方向に外皮を被せるのに対し、西日本では、高さ数10cmほどで周囲に築いた土手の内側を埋め、これを重ねる。やがて後者が普及し、何段もの高い墳丘が造られた。土嚢や土塊を平面的に並べて広げたり、放射状や列状に並べてその内部を盛る手法も普及していく。土をはんちく強くするために突き固める版築の手法も、寺院の基礎から応用された。層間に枝葉を敷く「敷葉工法」(現代のジオテキスタイル工法)による盛土もあった。この工法みずきは河内国の狭山池や筑紫国の水城にも共通する。条里も全国に広がった。1町(約109m)方画の土地区くぶんでん画は、口分田を班給する班田収授と一体をなして「条里制」と呼ばれてきたが、実情は異なる。班田収授が条里区画なしに数10年も進められた後、養老7(723)年の三世一身法や天平15(743)年の墾田永年私財法で墾田が誕生したことを受け、私有の墾田と国が管理する口分田などを区別するために導入されたのが、1町方画の区画および碁盤目状の区画列を「○条△坪」とする呼称法からなる条里プランだった。座標で位置を特定し、地籍作りを効率的に進めたのである。そのほか、飛鳥から平安の時期、都城の建設や直線道路の敷設、開墾での水源確保、必要ならば河川の付替なども辞さない国土の改変は目覚ましかった。写真2条里の姿が残る奈良盆地(1946年)顔の見えない技術者国家や強大な寺社・貴族などの領主層が進めたとはいえ、インフラ整備に実際に携わった者たちの顔は見えない。たとえば古墳なら、石と土の両面から年代や地域の差異、技術の変遷を追跡できても、石と土を統合して古墳とした人物像は不明である。条里の設定には班田司という役人、計算や測量の専さんししじょう門職「?師」や助手「史生」などがいた。人と土地の戸こうでん籍を数年ごとに照合して確定する「校田」が重要な作業であり、現存する条里図や荘園図はその必要から作成された。だが、彼ら官人も名前がちらほら現れるだけで、素性も何もわからない。明けやらぬ時代の技術は、司馬の描く一筋の流れではない。古墳造営を事とした土師氏など特定氏族はいたが永続はしない。大寺社や貴族を含む都の公的機関の指揮監督はうかがえるものの、現場の詳細な実情も系譜も具体的にはわからない。はじCivil Engineering Consultant VOL.283 April 2019013