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写真3弥生初期水田における水路と堰(高槻市安満遺跡)図3農書『百姓伝記』に見る百(の)姓=技藝”とでもいえる国土の造形が列島の津々浦々を覆っている。それは水田・水利システムである。稲は雑穀として、あるいは他の穀物と混作で畑状態の土地に栽培されていた。この雑穀文化の段階から水田稲作文化段階へ飛躍したことがその後の社会を変えた。現在まで続く社会・文化の基盤を創ったといってよい。この飛躍には、水田区画を囲む畦畔の意義が大きい。水を張り保つことは収穫を安定させ、生産性を上げる。やがて稲は富の象徴、価値を図る基準ともなり、ひいては社会の原動力という意味すら生まれた。畦畔で水を張るにはもとの地山から水平面を創り出すことが必要である。水を引くには堰や水路などの施設が不可欠であるし、田の一枚一枚に配る造作も要る。わが国の稲作には初期からそのような基盤が整っていた。そこには“技術”があり、それを行使できる者が必ずいたのである。行基の開発拠点地域でも、すでに現地の首長層が傘下の村落農民を使役して小規模な開発を行っていたはずである。でなければ生存すらおぼつかず「帰依=布施」どころではない。そのようにして、水田という民藝の担い手が国土を造形し、わが国土のごく普通の景観を営々と形づくってきたのである。案内者と百姓技術を行使する名も知れぬ者、民藝の担い手は「百かばね姓」と呼ばれた。百姓とは元来、百の「姓」(職業能力)を持つ者、いわばマルチタレントだ。百のうちの一つが今に言う土木技術だった。時代は大きく下るが、近世初期の農書『百姓伝記』にそのことが明らかである。農書とはいえ、作物や耕作の仕方はもちろん、天候、田畑の土の性質、肥料や農具、屋敷の構えや植栽の良し悪し、織物など各種の道具、社会とのつき合い方まで、“農”の営み全般をめぐる百科全書のようなものとなっている。農を巧く運営するには、本来それだけの素養が要るのである。その一章に「防水集」が立てられており、築堤から河川改修の方法、水制工法、洪水予知法、河況に応じた治水法などが記され、対象は用水・ため池や防潮堤にまで及ぶ。これらすべてが、百姓が知り実践すべき技術だった。「土木」も「技術者」も独立した職業でない時代、古代といわずおそらくごく近年まで、技術者の姿は「案内者に率いられた百姓」という構図で描くのが妥当だろう。案内者とは、武田氏の軍書『甲陽軍鑑』(1621年)が「金掘り」を称した言葉で、見識を備えて掘り方に多くの指図をし、掘削夫に普段の訓練もする、そんなコーディネーター機能を持つ者をいう。かたや百姓も、腕を磨けば案内者になれた。そうした可塑性、潜在的能力に富んだ者たちこそが、顔が見えず名前を知られなくとも、現代まで続く水田稲作文化社会を支えてきたのである。<参考文献>1)和田晴吾:古墳時代の生産と流通、吉川弘文館、20152)青木敬:土木技術の古代史、吉川弘文館、20173)金田章裕:古代国家の土地計画、吉川弘文館、20174)溝口優樹:日本古代の地域と社会統合、吉川弘文館、2015<図・写真提供>図1国立国会図書館デジタルコレクション(秋里籬島撰・竹原信繁画『和泉名所図会』巻之三より)写真1神戸市教育委員会写真2国土地理院写真3高槻市教育委員会Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019015