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特集2武土木技術者の姿士が切り開いた民衆のための土木事業特に治水、利水技術の視点から知野泰明CHINO Yasuaki日本大学工学部/土木工学科准教授平安時代末期から幕末までの長い戦乱の中で、武士は軍事技術と共に土木技術を身につけた。また、高度な土木知識・土木思想をもった武将はその配下に優れた土木技術をもつ職人を擁していた。武士と職人たちとの関係を知り、彼らが土木事業の中でどのような役割を担っていたかを知る。武士が政治を担った時代は、平安時代末の1166年に平清盛が内大臣、翌年に太政大臣へ昇進以降、江戸時代が終わる1867年まで続いた。この700年の中で最後の約300年に行われた土木事業は、主に武士が先導、指導または監督者となり牽引することとなる。戦国時代末から江戸時代の終りまでのことである。一方、その労働力は、明治時代の土工機械の登場までは、参集参加した民衆や技術を持った職能民らによるものであった。本稿では、近世に至るまでに武士が土木事業にどのようにして大きく係わるようになったのか、またその技術の到達点はどのようなものであったのかを垣間みたい。それは特に治水や利水など河川や灌漑への係わりの変遷を辿ると理解しやすい。この視点の下、武士の時代を中心に、また理解を深めるために、それ以前の状況も絡めてみていきたい。中世における治水と利水(平安末期?鎌倉?室町)1平安時代末期?鎌倉時代645年の大化の改新以降、隋唐に倣った官僚制と律令制が始まり、治水や利水の役職も整えられた1)2)。しかし、同時に国が始めた耕地供給の班田制は短期間で破綻し、743年に出された『墾田永年私財法』が荘園となる土地私有発生の契機となる。官僚とともに僧侶達も土木の事績を残し、平安後期には勧進上人、聖などと称され、民衆や職能民などの組織立ての役も担っていた3)。平安時代末期には自然災害の影響もあったためか、思想的、精神的に不安定な時代となる。仏教では末法ぼんど思想が、また当時、勃興した陰陽道が唱導した犯土思想なども現れ、民衆に少なからず影響を与えた。犯土思想は土の掘削や移動を忌み嫌う考えがあり、土を動かすことへの抵抗感が民衆の意識の中に生まれた4)。そして、次の時代の政治を担う武士たち、平氏や源氏が土木事業においても実績を積むようになる。近年の我が国の職能民に関する歴史研究では、関西と関東、東北ではそれぞれ状況が異なるとされるが5)6)、代表的な例として次のような実績がみられる。平清盛(1118~1181年)が政治に参加し始めた頃の土木事業として大輪田泊(現神戸港)の修築がある。これは行基(668~749年)による構築とされ、清盛が没して修築は中断したが、1196年に東大寺の僧重源(1121~1206年)により完成した。武士は荘園や公領などの在地領主となり水利開発にも関与した。その大きな事例として鎌倉時代の女堀の整備がある7)。これは14kmにわたる大規模な用水路開発でありながら未完のまま群馬県の赤城山麓に遺構として残存する。完成には支流河川の数々を横断しつつ山麓に沿って水を遠方に届ける必要があり、それには正確な水準測量技術を求められたが、女堀の縦断面には流路に適さない勾配も散見される。鎌倉時代の土木事業では、僧侶の叡尊(1201~1290年)や忍性(1217~1303年)の組織立った活動もあり、その後、律宗の勧進による動員に結びついたとされる8)。016Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019