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2室町時代幕府による武士の統率力の低下と共に、荘園など在地での勢力争いが顕著となり、山地での築城が積極的に始まる。選定地には古代以来の寺院が存在していた場所も含まれ、山地築城の主導にて武士は土を動かす経験を増やしたと考えられる。土木学会による『明治以前日本土木史』では中世の治水利水技術について、鎌倉時代は大河川での築堤や関東地方の開墾を多少指摘する程度である。室町時代は先導と労働のあり方は鎌倉時代以来の状況が続いていたと考えられるが、混乱図1 甲斐国にて考案の水制「大聖牛」の時代でもあり史実を明らかにすることは難しい9)。ふしんじょうほうしょ中世の状況を変える最終的な区切りは、豊臣秀吉に普請定法書』に甲州流として採用された。武田家出自よる太閤検地、石高制・村請制への移行による荘園公の家臣や技術は江戸幕府に評価され、多数採用13)され領制の終滅と考えられる10)が、室町時代の治水利水のたが、武田家臣に限らず戦国時代の戦いに勝つために技術や具体的内容を考古学の成果も加味して明らかにも各所領において算術に長けた者たちが輩出された。する研究は近年、始まったばかりであり11)12)、今後の考2織田信長(1534?1582年)究が必要である。なお、朝廷の依頼にて空海(774~1573年に将軍足利義昭の追放により室町幕府を瓦解しらい835年)の民衆子来により821年に修築された満濃池はさせ戦国時代を終わらせた信長。安土・桃山時代とな1184年に決壊し、1631年の再築まで放置されていた。った1579年には覇権を握り西欧情報にも通じて、蓄積これは中世を考える上でも興味深い。された築城技術を得て安土城を完成させた。大規模な高石垣が築かれたが、近年の発掘から、信長は1563年戦国末期から安土桃山時代の小牧山城でも石垣積みをさせており、安土城築城まこの時代は土木事業の主導・先導者が僧侶から武士でに技術経験を積んだことが分かりつつある。となる事例が増える。知識や経験を積んで名声と事績また、中井均滋賀県立大学教授によると1556年の観を残した武将は多いが、ここでは変革に特に影響した音寺城の築城では、石造物制作のための寺院の伝統人物3名に触れたい。技術とされる矢穴技法で割られた石垣が使われている1武田信玄(1521?1573年)が、安土城にはみられないとのこと。今のところ観音寺武田信玄は1541年に父信虎を追放し甲斐国主となっ城は信長以前の戦国時代の築城において石垣を多用した。甲斐国(現山梨県)の中心部は甲府盆地を中心とすた唯一の例ではないかと考えられている。安土城近傍る北高南低の扇状地である。盆地西部には南下する釜の同城の存在は南北朝時代から確認でき、観音正寺みだいがわ無川と東流する御勅使川が合流し、北東からは笛吹川(創建伝605年)の山上寺域に築城されたが、1568年のなどの河川があった。そして、これらの河川が引き起こ信長の攻撃により開城となった14)。す洪水は、盆地中央の甲府一帯を襲った後、南の渓谷一方、当時の西欧の知識の影響は、測量技術に限れへ集中し富士川を増水させ駿河湾へ注がれる。ば顕著なものはなかったとみられる。水準測量の視準繰り返される惨状に対して、信玄や家臣、国人らは各距離を伸ばす単眼鏡の実用化は、西欧でも17世紀に入種水制(図1)・護岸などを考案、霞堤などの堤防を駆ってのことであったからである。こうした状況から、安土使し、河道矯正も行って盆地内の治水を進展させた。こ城の築城は既に技術を磨いていた大工や石垣積み技術れら水制や護岸などの治水技術は、江戸時代中期に河を持つ職人たちの結集であったと考えられる。西欧人とかわよけ川改修の歩掛りや具体的技術を幕府がまとめた『川除の交流において威厳を示し防御するためにも、安土城Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019017