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絵本太閤記左絵本太閤記右図2木食上人興山應其轆轤にて巨材を曳くの図の設計では西欧の城や都市の情報による考慮がなされたことは想像に難くない。3豊臣秀吉(1536 ?1598年)治水や利水に係わる労働では、農民や被差別民を含む種々の民衆や職能民が参加していたと考えられるが、前述の通り、近世以前の状況は今後の研究蓄積が必要である。近年、服部英雄九州大学教授によって被差別民による職能民としての係わりが明らかにされており15)、興味深い事例の一つに陰陽師に関するものがある。それは信長、秀吉、他の大名において常に陰陽師が配され、自身の祈祷奉仕や用水整備、溜池築造、堤普請などでの地鎮の要として期待されたとのことである。秀吉が大坂城本丸を完成させたのは1586年のことである。大坂城は1580年に信長が合戦の末焼失させた石山本願寺跡地に建設されたものであり、本能寺の変はその間の1582年に起きている。本丸完成と同年、秀吉は京都の方広寺大仏殿の建立において、巨石や大木の移動などの壮観に喜んだことが伝わっている(図2)。そおうごの指揮に当った高野山の客僧・応其上人(1537~1608年)は、紀の川沿川の溜池・畑谷池などの増堤や改修を近遠方の民衆や石工などを集めて完成させている16)。石山本願寺の跡地に大坂城を築城し、信長由来の威厳をみせた秀吉であるが、僧侶が先導する土木事業の終焉を見届けたのも秀吉と考えられる。江戸時代の治水と利水江戸時代に入ると荘園崩壊後の幕藩体制による領地経営が始まる。そして江戸や親藩の領地整備に伴う築城が行われ、多くの大名が手伝いとして係わった。また、数々の領地で灌漑用水路の整備が積極的に始ま写真1大畑才蔵考案の水盛台(復元)る。江戸時代初頭には水平を高精度で測る水準測量道もくひ具が考案され(写真1)、河川を横断する木樋やサイホンなどの技術と経験も蓄積されていった。それまでは古代以来の溜池や湧水、支川などから取水して狭い領地へ用水供給するかたちでの稲作が続けられていたが、これらの技術等により、大河川と並走し支川を横断しつつ沿川地域を灌漑できる時代に変わった17)。言い換えれば荘園領地を越えた広範囲の土木事業の始まりであり、大河川に対する横断方向から縦断方向への用水路の開発も積極的に行われた。それは戦国時代に取り残されていた大河川沿川の段丘面や微高地への用水供給を可能にした。この結果、帰農した武士や民衆の耕地が拡大され、江戸初期の人口約1,200万人が、1700年頃に約3,000万人、幕末には約3,500万人にまで増加した。こうした江戸時代での大規模な土木事業の進展に018Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019