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特集4市土木技術者の姿川五郎兵衛による五郎兵衛新田の開発斎藤洋一SAITOU Youichi小諸市古文書調査室室長「五郎兵衛用水路」はいくつもの山をトンネルで掘り抜いて造られた。金山開発に携わっていた者達が掘ったこの用水路は、鉱山技術が土木技術に転用されたことを示唆している。難工事を成功に導いた市川五郎兵衛や工事を担った職人たちの存在を知る。「五郎兵衛新田村」いわゆる「昭和の大合併」によって浅科村となる昭和30(1955)年まで、長野県北佐久郡に「五郎兵衛新田村」という、個人の名前をつけた村があった。江戸時代初期に市川五郎兵衛という人物が中心となり、全長約20kmの用水路(五郎兵衛用水路)を開削したことで、この村ができたからである。村民は五郎兵衛に感謝し、村名を五郎兵衛新田村とした。以来、昭和の大合併までこの村名が維持されてきたのだった。なお、浅科村はその後「平成の大合併」によって平成17(2005)年に佐久市となっている。五郎兵衛が生まれた市川家それでは、市川五郎兵衛とはどのような人物だったか。五郎兵衛は、戦国の動乱まっただ中の元亀3(1572)こうずけのくにかんらぐんなんもく年11月15日に、上野国甘楽郡羽沢村(現群馬県南牧むら村)に生まれた。従来元亀2(1571)年生まれとされてきたが、それは誤りである。生家は、羽沢村を含む南牧谷を拠点とする在地小領主の家で、五郎兵衛が生まれたころは甲斐国の武田信玄とつながっていた。ところが、それから10年後の天正10(1582)年に武田家は滅びてしまう。とはいえ、徳川家康から「旗本」になるようにとの誘いもあり、それで市川家の武士としての途が断たれてしまったわけではなかったが、市川家ではその誘いを断ったという。だが一方で家康から、文禄2(1593)年12月16日付で「分国中、山金・川金・芝間ともに、これを掘るべきこと」を第一条とする三カ条からなる朱印状を、大久保十兵衛長安を通じて与えられた。このうち「芝間」は「雑草の生い茂った荒れ地」というような意味であるから、市川家ではこのころ、金山開発・新田開発に従事しようとしていたと考えられる。写真1南牧村の段々畑主眼は金山開発だがその主眼はおそらく金山開発にあったと思われる。というのは、この朱印状とほぼ同文の印判状が同年11月9日付で、甲斐国黒川金山と駿河国安倍024Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019