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金山の「金山衆」へ与えられているからである。市川家も金山開発を志向していたことから、この朱印状が与えられたと考えられる。元は武田家につかえ、武田家滅亡後は家康につかえて、石見・佐渡・伊豆などの鉱山開発にあたった大久保長安を通じて朱印状が与えられていることからも、このことが裏づけられるように思われる。隣の砥沢村(現南牧村)には、甲斐の武田家によって金が採掘されたという言い伝えの残る旧坑があり、近年の地質調査によって、金の採掘を目的に開削された坑道と判定された。この坑道を掘って金を採掘しようとしたのが、市川家ではなかったかと推測される。しかし、採算がとれるだけの金は産出しなかった。そこで市川家は金山開発をあきらめ、同じ砥沢村にあった砥石山の経営にあたることになったのではないだろうか。この砥石は当時、江戸をはじめ関東各地や信州などへ販売され、相当の収益をあげた。そして、その収益を基に五郎兵衛は、佐久における新田開発に乗り出したと考えられる。なお五郎兵衛は、これまで見てきた金山開図1徳川家康朱印状の写し(提供:市川三次)写真2南牧村の砥石山跡発・砥石山の経営を、同族である砥沢村の市川(右近佐久へ入った五郎兵衛は、市村新田・三河田新田を介)家とともに行っていた。したがって、この後の佐久開発し、その後五郎兵衛新田の開発にとりかかったとにおける新田開発も、砥沢村の市川家と相談しながら考えられる。五郎兵衛が当時この地方一帯を支配して進めたと思われる。いた小諸藩から、「矢嶋原の芝間」の開発を許可されたのは、寛永3(1626)年12月のことだった。それから約5佐久における新田開発年の歳月をかけて五郎兵衛用水路を開削し、五郎兵衛それでは、なぜ五郎兵衛は佐久における新田開発に新田の開発により上原・中原・下原の3集落が成立した。乗り出したのだろうか。その動機については諸説あるの後のデータになるが、天保5(1834)年の市村新田の石で紹介を省く。ただ一言述べておけば、水田のない谷間高が約549石、三河田新田が約195石、五郎兵衛新田の村である羽沢村から国境を越えて信州へ下ると、広々が約875石だから、合わせて1,619石の新田を開発したとした「佐久平(佐久盆地)」が広がっている。しかも、ことになる。五郎兵衛はこの3新田に「過分の金銀」をそこかしこにまだ開発されていない「芝間」が残されて投じ、粉骨して開発した褒美の領地として、寛永19いる。五郎兵衛には、これを放っておくことはできなか(1642)年に小諸藩から150石を与えられている。ったのではないかと思われる。Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019025