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写真5五郎兵衛用水路のつきせぎ写真6秋の五郎兵衛田んぼ。遠くに見えるのは浅間山図3つきせぎの断面図せぎ」の14.3kmからなっていた。なおこの地方では、用水路を「せぎ」あるいは「せんげ」と呼んでいる。岩間せぎは、4つの掘貫と「乗(法)掘せぎ」からなっていた。掘貫は矢嶋村山掘貫約216m、百沢掘貫約153m、片倉山掘貫約324m、桜岩掘貫約45mで、高さが約1.8m、幅が約1.5mとされている。この高さと幅の寸法は、実際より一回り大きく記されているように思われる。なお掘貫は、江戸時代中期には9カ所に増えている。のり「乗(法)掘せぎ」は、法すなわち斜面を掘った水路、言い換えればごく一般的な用水路と考えられる。「つきじぎわせぎ」は、地際すなわち底部の幅が約7.2m、高さが1.5~2.4m、長さが約1,080mとされているから、土量だけでも相当な量といえよう。「金掘」「石切」が支えた五郎兵衛が私財を投じてこの大工事をなしとげたわけだが、それを支える人々がいなければ完成することはなかったと思われる。とりわけ難工事であった掘貫は、高度な技術が必要だったが、それはどのような人々がもっていたのだろうか。残念ながら一人一人の名前は伝わっていないが、五郎兵衛の下で金山開発や砥石の採掘かねほりに従事した「金掘」や「石切」と呼ばれた人々、あるいはそれに連なる人々ではなかったかと思われる。というのは、少し後の史料に「掘貫は金掘や石切でなければ掘ることができない」と記されているからである。五郎兵衛新田より30年ほど後に、黒沢嘉兵衛が中心となって同じ佐久郡に開発された八重原新田開発の歴史を伝える史料にも同様のことが記されている。すなわち「岩間を切り、岩石を掘りぬくために、金掘や石切を雇い、その金道具を補修するために鍛冶を雇った」と。これらのことから、金掘や石切と呼ばれる専門技術者がいなければ、掘貫を掘ることはできなかったことがわかる。なお、この史料には測量のことが「水盛」と記されている。それが具体的にどのような測量方法であったかはわからないが、これらの人々は精密な測量技術ももっていたと考えられる。というのは、五郎兵衛用水路は一部を除いて勾配が10mで2~3cm、つまり2/1000~3/1000にされているからである。また、300m余りの長い掘貫を、山の両側(穴口・穴尻)から掘り進めて無事開通させてもいる。五郎兵衛用水路も八重原用水路も、こうした専門技術者の支えがあって開削された。その用水をもとに、今日おいしい五郎兵衛米や八重原米の産地として知られる、五郎兵衛新田や八重原新田が開発されたのだった。<参考文献>1)浅科村史編纂委員会編『浅科村史』浅科村、2005年3月2)南牧村郷土研究会編集発行『群馬県砥沢金山の解明兜岩カエル化石の研究』2004年3月3)斎藤洋一『五郎兵衛新田と被差別部落』三一書房、1987年11月4)斎藤洋一「五郎兵衛用水の掘貫を掘ったのは誰か」『水と村の歴史』第6号、(財)信州農村開発史研究所、1990年12月5)斎藤洋一「八重原新田開発記録の再検討」『水と村の歴史』第30号、(一財)信州農村開発史研究所、2017年3月Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019027