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予科1年予科2年専門科3年専門科4年実地科5年実地科6年科目名4?6 9月10 ? 3 4?6 9月10 ? 3 4?6 10 ? 3 4?6 10 ? 3(語学)英学7.5 7.5 6 6(人文)本朝学557.5書房4.551.51.533(数学)数学7.5 5 7.5 6 3 3鉄道(理学)理学3 2 7.5 4.5 2線理学試験所6 6路化学4.5 7.5計画金石学4.5の地質学4.5実地(図学)図学7.5 6 4.5 15 4.5測土木図学5量(測量)測量3に従測量図学野業11事土木測量図学す20(機械)重学3蒸気機関機械学31応用重学33(土木)土木学176.5図2工部大学校土木科カリキュラム専ら実地について事業を修む専ら実地について事業を修む(卒業論文)帝国大学工科大学─最高学府の樹立一方、東京大学では“唯一の大学”としての「帝国大学」を発足させ、政府資金を集中投資し「欧米に匹敵する最高の学府」を目指す方針を取り、各分科大学をそれぞれの学問分野の頂点に位置づけました。時を同じくして工部省が廃止となったため、文部省は工部大学校を東京大学の工学科(当時は工芸学部)の中へ再編し、帝国大学工科大学として発足させたのです。また初等教育制度の整備に伴い、帝国大学の下には大学予科として高等中学校を整備し、全国に配置することによって優秀な人材を帝国大学に選抜するシステムとしました。こうして工学も含む高等教育に、初めて小学校からの一貫した教育ステップがつながったことになります。しかし大学の定員は少数で、年間で10人程度の土木技術者しか養成できませんでした。帝国大学内に工学が位置づけられたことには、開成学校からフランスのエコール・サントラル(中央工業大学)へ留学し、帰国したのちに内務技師として活躍していた古市公威の力が大きく働きました。彼は1886(明治19)年、内務省官僚のまま工科大学初代学長に32歳で就任し大学を組織します。人事面では外国人教師から日本人教師へ、カリキュラムは東京大学の積み上げ式を継承すると同時に、工部大学校の実習方式も取り入れられ、両者の中間を取るカリキュラムに整備しました。土木技術者教育の広がり─中級の技術者育成しかし帝国大学工科大学は、最短での卒業が23歳と教育年限が長く(明治時代の男性の平均寿命42.8歳)、少数先鋭に過ぎて、実業界からは隔絶した感がありました。戦前は技術者の序列、ヒエラルヒーが強固であり、「技師」→「技手(工手)」→「助手、筆工、図工手等」→「職工、工夫等」となっていました。この中で技手は技師(人数)80706050403020100明12明14明16五高工学部札農土木工学科三高工学部京都帝国大学札農工学科東京帝国大学工部大学校明18明20明22明24明26明28明30明32明34明36明38明40社員・職員工員技師技手・工手・掛員(下級技術員)助手、筆工、図工手等職工帝国大学工学部高等工業専門学校実業(工学)学校・養成校図3官立土木高等教育機関の卒業者数図4大正期の職階制030Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019