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の技術(欧米由来の近代技術)を理解し、実施に移して施工を指導して施工業者(工夫らの伝統・古来の技術を持つ技能者)との仲介役を果たす技師のサポート役であったが、その人材が不足していたのです。ひろもとこの問題を帝国大学初代総長渡邊洪基が工学会に持ちかけ、民間有志でもって学校を設立する気運が高まりました。古市をはじめ、のちに東京駅舎を設計した辰野金吾ら14人が発起人となり誕生した中級技術者養成学校は「工手学校(現工学院大学)」となります。その教壇には、古市の呼びかけで多くの工科大学教員が立ちました。同じく測量を教える学校として設立されていた私立攻玉社も1888(明治21)年、土木技手を養成する課程を設置しています。遅れて文部省の実業教育の推進派(井上毅文相等)は、高等中学校へ高等専門学を担わせる組織改革を行いました。この1894(明治27)年の『高等学校令』で目指したのはドイツの単科大学に倣ったシステムで、高等学校は専門学を教授する専科大学とし、大学予科の部門は第2の目的としました(帝国大学は大学院として格上げを想定)。新設の高等学校専門学部は「学士」に呼とくぎょうし応して卒業者に「得業士」の称号を与えることとなります。高等学校はのちの高等工業学校につながるものであり、土木分野では室蘭工大、熊本大、名古屋工大、東北大等(設立順)がそれにあたります。これらの学校が帝国大学と異なるのは、予科を通さずに高等技術を伝授するところでした。このために必要となったのが、日本語による土木技術の教科書です。日本語による土木技術が体系づけられ、混擬土(コンクリート)等の言葉も生まれています。しかし当時は技術に対して、江戸の頃からある手にカナヅチを持って働くことを卑しむ風潮、額に汗して働く労働への軽視がまだはびこっていました。そのため卒業後すぐに技師となり、高給で処遇される工科大学ならばいざ知らず、これら中等技術者の学校は志願者数が安定せず、中途で上位の学校を目指す退学者も多く出て、社会の求めに反して安定的とは言えない状況でした。社会の階層意識がまだ強く、学歴至上主義が邪魔をしたのです。古市公威と広井勇の言葉明治期の工学の最高権威であった古市は、土木学会設立時の初代会長演説で「土木は将に将たる工学」と述べます。しかしこの言葉は褒めたのではなく、その当時の土木が「専門に籠もっていて総合性を失っている、写真2東大工学部にある古市公威の銅像もう一度その高みを目指しなさい」と叱咤激励を述べていたと思っています。その古市は、所轄官省の学校として存続していた札幌農学校で工学士を養成していた広井勇を帝国大学に呼び寄せ、土木工学科主任に据えます。広井はエリート然とした帝国大学学生に新たな風をもたらしました。彼の技術者思想の源はアメリカと北海道にあり、「その土地に住む人々のために何ができるかを考え、気候に合わせた創意工夫と、何もない土地で施工できる設計をなし得るトータルの技術者を目指しなさい」というものでした。「技術者は設計図面をキチンと描けてからが一人前」「設計したものが施工され、完成するまで面倒みるのが一等の技術者である」。こうした彼の姿勢は、近代土木を推進した多くの先達を育ててきました。今日の私たちもその末裔であり、近代にもたらされた土木技術が道半ばであることを認識し、国土に適合する技術を模索し、研鑽に励むことが更なる技術の進歩をもたらすと考えています。<参考文献>1)国土政策機構編:国土を創った土木技術者たち、鹿島出版会、2000年2月2)原口征人ほか:旧制官立専門学校における中級土木技術者教育、土木史研究20、土木学会土木史研究委員会、pp15-22、2000年5月3)土木学会編:古市公威とその時代、丸善、2004年11月4)茅原健:工手学校旧幕臣たちの技術者教育、中公新書ラクレ246、2007年6月5)野原博淳:日本の技術者とフランスの技術者、日文研フォーラム、国際日本文化研究センター編、2010年2月<図・写真提供>図1、3参考文献2)を基に制作:株式会社大應図2参考文献3)を基に制作:株式会社大應図4参考文献5)を基に制作:株式会社大應写真2徳武広太郎Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019031