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写真6装飾が異なる二つの石橋写真7広大な国土のような風景ある。北東から南西方向に築造された1107.58m 2の池である。池敷は元々湿地であった場所と造園のために島尻粘土(クチャ)を造成した場所に区別され、源流は2つある。1つは湿地部で、地下水が地表へ穏やかに湧き出している。もう1つは前述した育徳泉である。心字池の中には小石橋と大石橋の2つのアーチ橋が存在している。御殿からはじめに渡る小石橋は、海岸で波や風の浸食を受けたような装飾を琉球石灰岩で施されている。一方の大石橋は、側壁が相方積みになっており、船がくぐり易いように真ん中が高くなっている。このようなアーチ橋は中国を代表する景勝地・西湖にある蘇堤や白堤を模したものと考えられている。2つの橋を同形式にせず、どちらかの形を崩す技法は日本的要素で、両国の影響があったと考えられる。また、共に階段の踏面に傾斜をつけている。これは雨量の多い沖縄にとって雨水排水の効率をあげ、橋を渡る際に滑りにくくする配慮がされている。東中島には六角堂が建っている。屋根は御殿と異なり、中国風の宝形造や黒色の本瓦葺となっている。明治時代末に撮影された写真には、入母屋平屋建ての建物があり、1924(大正13)年以降の写真で六角堂に代わっているため、その間に新造されたと考えられる。■大陸のような光景心字池や六角堂を経て、再びうっそうとした樹木のトンネまあじルを抜けると「勧耕台」に到着する。那覇市真地の北西部に位置する識名園は、残波岬から那覇にかけて海岸沿いに石灰岩丘陵を形成している台地上にあり、南側が急斜面となっている。勧耕台は海抜約80mの高台にありながら、海を見ることはできない。現在は住宅などが多いが、冊封使たちが訪れた時は広大な田園がどこまでも続き、緑の中に集落が点在し、まるで大陸のような光景であったといわれている。中国と比べて国土が小さいことを思わせないように地の利をうまく利用し、遠くの景色をその庭の一部であるかのように利用する「借景」の技法が使われている。冊封使たちは出身地であった中国の福州の田舎に似ていたため、深い郷愁を駆られたと伝えられている。■識名園を楽しむ識名園が一般公開された1995(平成7)年は、約7万4千人もの人が来園し、毎年5万~8万5千人が訪れている。歌会や茶会、びん型織物展、宮廷様結婚式なども催されており、識名園が建設された当時の使い方ではないが、多くの人々に利用されている。20年に渡り実施されてきた識名園の復旧事業では、創設当時の識名園の風景が上手く再現されている。あくまで推測ではあるが、中国や日本の庭園要素を識名園に取り入れたのは、琉球という南国である故に周辺諸国の文化の影響を受け、独自の庭園文化へと昇華させた結果が滲み出ていることや、冊封使を迎えるために中国の文化を積極的に取り入れ歓迎の意を込めていたのではないだろうか。ぜひ訪れて、人々に識名園を楽しんでもらうことを意識した、あまた散りばめられた工夫に触れてみてはどうだろうか。<参考資料>1)おきなわ文庫『名勝「識名園」の創設-琉球庭園の歴史-』古塚達朗2000年ひるぎ社2)『名勝識名園環境整備事業報告書』那覇市教育委員会1996年3)『沖縄の土木遺産先人の知恵と技術に学ぶ』「沖縄の土木遺産」編集委員会2005年社団法人沖縄建設弘済会<取材協力・資料提供>1)那覇市市民文化部文化財課<図・写真提供>P44上、写真1細谷州次郎写真2、3山口佳織写真4、5、7徳武広太郎写真6塚本敏行Civil Engineering Consultant VOL.283 April 2019045