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Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020 009「利根川⇒隅田川⇒東京湾」という川の流れを、「利根川+鬼怒川⇒太平洋」へと切り替える大事業であった。奥川廻しは1594(文禄3)年、現埼玉県北部の会あいの川の締め切りから始まった。その後、1621(元和7)年の赤堀川の初開削以降、1643(寛永20)年までの逆さかさ川・江戸川の開削、1654(承応3)年の赤堀川の増削を経て、利根川は太平洋に流れるようになった。奥川廻しは、伊奈忠次等によって行われた江戸初期の代表的な土木事業であるが、狙いには様々な説があり、物流網形成、江戸の洪水防止、利根川を奥州各藩に備える堀とする、近傍を通る日光街道の浸水対策など、関東全体に対するものから、局所的なもの、また治水から物流まで多様である。今となっては、局所的な治水対策が積み重なった結果なのか、大きな目標を狙い定めて事業を積み重ねたのかが判然としない。しかし当初の狙いが何にせよ、奥川廻しにより隅田川は制され、水路網も大きく変化し、物流網の活性化につながっていったのである。■ 江戸の物流と橋の守り手奥川廻しの完了後、江戸に向かう水運の経路は、東京湾を経る「海手」と利根川を経る「奥川」の2つが形成された。「奥川」は特に東北方面とのつながりが強かった。東北からの物資は海舟により利根川河口に到着すると、高瀬舟などの川舟に積み替えられた。河川舟運は、1隻で江戸に運ぶ海上と異なり、地域の物流業者が短区間を輸送するリレー方式であった。積み替えが発生するものの、地域の流れに詳しい地元の船頭が輸送する方が確実であったのである。川舟に積み替えられた物資は、利根川を北西に遡り、関せき宿やどで江戸川に入ると一路南下。そして江戸川下流から中川を経て船番所に到着する。中川船番所は小お名な木ぎ川の東端に位置し、江戸に出入りする船の関所であった。夜間の出船は禁止などの規定がある一方、「通ります通れ葛西のあうむ石」と詠われたようにルーズな部分もあった。これは地元の船頭が多く、番人と顔馴染みであったせいもあるだろう。一方、東北からは房総半島を回り、一度伊豆下田や相模三崎に停泊し、西にしばえ南風を待って江戸に向かう「海手」もあったが、海上輸送のリスクや大型船が必要であること、また関東一円の物資は川舟を活用していたため、積み替えの手間はありつつも、「奥川」の地位がゆらぐことはなかった。「奥川」「海手」はいずれも隅田川を終着点とし、そこで艀はしけに積み替えて江戸中に搬送された。隅田川の役割は、輸送経路という以上に、江戸の物流ターミナルとして全国からの物資を市中に仕分けることだったのだ。これら小口の運送は、河川問屋・艀下宿と呼ばれる輸送業者が担っており、特に小名木川沿いの業者は、同時に両国橋の水防役を委ねられていた。架橋技術が未発達の江戸期は、大水の際に川中に立てられた橋脚が流失する危険性が高かったため、鳶とび口くちを使って流木墨堤待乳山浅草寺浅草御蔵神田川小名木川両国橋中川船番所隅田川中川新吉原日本堤吾妻橋(東橋)図2 隅田川周辺図(1700 年初頭)図1 『 地文新篇』の目次写真1 周辺から一段高くなっている待乳山聖天