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Consultant286

010 Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020等から橋脚を守る水防役が必要とされた。この役目を負う代わりに「奥川」の荷物を江戸各所に運搬する権利を幕府に保証してもらっていた。■ 隅田川の堤防奥川廻しや水防役とともに、堤防の整備も行われた。1619(元和5)年8月に大水で浅草下谷や本所が被害に遭い、翌年には「日本堤」が築かれた。新吉原と隅田川をつなぐ山さん谷や 堀に沿って築かれた延長約870m、高さ約3mの堤防であり、堤の端部は江戸以前から微高地であった待乳山とつながっている。日本堤は対岸に既にあった「墨堤」とともに、待乳山を要として上流側に開いた扇を形成し、扇の上流部を一種の遊水地とすることで江戸を水害から守る仕組みであった。また日本堤整備の同年、神田川が開削され、その土を神田川沿いに盛った柳原土手を設けることで、二重の防御とした。■ 隅田川に住み、隅田川で競う近代に入っても水運は重要な役割を果たし、神田川沿いに秋葉原駅と飯田町駅(現飯田橋駅)、隅田川沿いに隅田川駅など、水運の便の良い場所に鉄道駅が整備された。同時に鉄道から艀に物資を積み替えて東京市中に搬送する人々が登場したのだが、彼らの主な住まいは実は川であった。大正から昭和にかけては「セジ」と言われる艀の2畳ほどの空間に、家族2~3人で生活する者が多く存在した。1925(大正14)年の国勢調査によると、東京の艀が6,458隻、水上生活者が1万6,569人も存在していた。これらの人々は荷役の仕事に応じて東京中を移動したため、生活環境、特に教育が問題となっていた。例えば午後子供が学校から戻ると家(艀)がなく、東京中の河岸を探し回り、ようやく深夜1時に親元に戻れたという話もあり、のちに水上生活者用の寮形式の学校が設立されるに至った。また、隅田川は大船小舟の行き交う輸送路であると同時に、都市民に最も近しい水辺でもあった。江戸時代から川沿いは行楽の場であり、墨堤の桜並木は今に至るまで花見の名所となっている。そして、明治期には水泳などのスポーツも盛んに行なわれていた。水上に飛び込み台を設けた船を係留して水練場とし、艀の通る脇で川に飛び込む姿が多くみられた。さらに盛んであったのが、ボート競技である。幕末に欧州から入ったボート競技は明治には大学に普及し、大学対抗レースも行われるようになった。川沿いには各大写真2 中川船番所(中川船番所資料館の再現ジオラマ)図4  明治時代のボート競技のコース。浅草側の浅瀬は現在の隅田公園図3 隅田川の日本堤と墨堤(1850 年前後)日本堤新吉原浅草寺待乳山隅田川墨堤山谷堀