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Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020 0131657(明暦3)年の明暦の大火により江戸は焦土と化し、江戸湊も甚大な被害を受けた。復興と都市拡大に伴い江戸湊は鉄砲洲、築地、高輪へと拡張され、遠浅の海域に霊岸島、石川島、佃島などが造成されたが、その後は幕末の台場造成まで大規模な埋立ては行われなかった。■ 進まない東京築港1868(明治元)年に江戸は東京と改称されて首都となったが、東京港は江戸湊のままであった。一方、1859(安政6)年に開港した横浜港は、全国の輸出入額の約7割を占める地位を確立していた。東京港の大規模な築港計画が財政難や横浜側の反対運動などで何度か立ち消えになっていた1906(明治39)年、整備を一歩でも前進させるため、事業範囲を小型船に限定して隅田川河口の改良工事が始まり、浚渫土砂により日の出ふ頭や芝浦ふ頭などが整備された。東京港の重要性が広く認識されるようになったのが、1923(大正12)年の関東大震災であった。救護物資を積んだ船が続々と集まったが、大型船の荷役ができる岸壁がなかったうえに、艀はしけや労働者も不足していたため、被災者に届く前に一部の食糧品は腐ってしまった。この震災以降、東京築港が本格的に動き始め、1930(昭和5)年に東京港修築計画が東京市議会で可決され、近代港湾へと整備されていった。そして、1940(昭和15)年には取扱貨物量が全国上位クラスの1,400万tに達した。着々と整備が進む東京港に対し、横浜市長は内務省に「開港以来港湾を生命としあらゆる犠牲を忍んで港湾を整備してきたのに、東京港修築の計画によって70余年間の努力は水泡に帰してしまう」と訴えた。これに対し、東京側は「貿易品を扱うための築港ではなく、あくまで市民が必要とする貨物を扱うためのものだ」と反論した。この頃、横浜側の東京開港反対運動は一層激しくなった。市民代表1,000名が橘丸で東京港を視察して圧力をかけ、横浜市の路面電車には「東京開港絶対反対」の横断幕が掲げられ、政府要人への猛烈な陳情が行われた。1941(昭和16)年5月、関係者の努力が実を結び、満州国、中華民国および関東州の就航船に限るという制限付きであったが、京浜港東京港区として開港が実現した。日比谷公会堂で開催された祝賀会には、多くの大臣が横浜側に遠慮して来なかったという。■ 社会変化に応じた港湾整備開港半年後に第二次世界大戦へ突入したため、東京明治時代大正時代昭和31年~昭和40年昭和51年~昭和60年平成8年~平成17年昭和61年~平成7年昭和初期(~30年)昭和41年~昭和50年江戸時代平成18年~施工中将来計画写真1 「豊洲ふ頭」の建設状況(1948 年)写真2 港内で最も古い「日の出ふ頭」図1 埋立地の変遷