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Consultant286

014 Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020港は軍専用のふ頭となった。終戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、港湾の運営は制限されたが、石炭、電力、エネルギーの供給拠点として東京の復興を支えた。高度経済成長期に入ると、消費や生産活動に必要な物資の流通拠点となり、東京に集中する人々の生活や産業を支えた。また、不足する港湾機能の確保と都市開発に向けて、1961(昭和36)年の港湾計画改定時に2,243haに及ぶ本格的な埋立計画が策定された。海上コンテナ輸送方式にも一早く対応し、1967(昭和42)年に神戸港と並んで日本で初めてコンテナ船を受け入れた。「横浜でやらないことは全部東京でやる」の精神で取り組んだことが、国際貿易港として大きく発展する契機になった。第1次石油ショック後の1976(昭和51)年の港湾計画改定では、高度経済成長期のひずみを是正するため、自然の保護・回復など多目的に埋立地を利用する観点が加えられた。また、1988(昭和63)年の港湾計画改定では、臨海副都心開発事業と整合を図ったうえで、都市構造を一点集中型から多心型へと転換するとともに、国際化や情報化に対応するため、産業基盤・生活基盤・レクリエーションの諸機能が物流機能と調和した総合的な港湾空間づくりを推進する方針が盛り込まれた。■ 造成工法と老朽化対策東京港の海底にはコンニャクに例えられる軟弱な粘土層が存在しているため、護岸の沈下や移動を防ぐことが埋立地造成における技術的課題となる。昭和初期の埋立地は、隅田川河口周辺の比較的地盤の良好な浅い海域に造成されており、捨て石や松杭により沈下を防いだうえで、背後の控え杭から伸ばしたワイヤー等のタイ材で岸壁を引っ張り、海側に倒れることを防ぐ工法などが採用された。昭和30 年代以降、埋立地が沖合に造成されるようになると、護岸の基礎地盤を砂質土に置換する地盤改良が施されるようになる。当時の埋立ては、まず仮護岸で埋立水域を囲み、浚渫土砂を入れて2~3年経って水分が抜けてから本護岸を施工する工程で行われた。仮護岸は約1m間隔で打ち込んだ直径20cmほどの松丸太の間を板でふさいだ木柵を二重に張りめぐらし、その間に砂や石を詰め込む構造であった。この松丸太の打ち込み具合で熟練技術者は海底の土質がわかったという。本護岸の構造は利用目的に応じて後から決められた。また粘土層が厚く堆積する沖合では、地盤改良に加えて固い地盤まで杭を打って沈下を防ぐ工法が採用された。東京港の係留施設の3割程度が建設後50 年以上経過しており、老朽化の程度を適切に把握し、補修・更新しながら機能を維持していくことが課題となっている。老朽化の程度の確認では、土を掘り返して矢板やコンクリートの全体を直接調査することは難しいため、表面のひび割れなど、目に見える小さな変化から、事例と経験に基づいて見えない所で起きている異常を検知し、問題が生じる前に補修する予防保全型維持管理が導入されている。東京港における維持管理の対象施設数は膨大で、係留施設の延長だけでも約16.5kmに達することから、施設毎に中長期的な計画を立てて効率的に維持管理が行われている。■ ゴミ捨て場としての埋立地埋立地というとゴミを連想されるかもしれないが、大部分の埋立地は主に航路確保のために海底を掘った浚渫土砂で造成されている。廃棄物処分のための埋立ては江戸時代の永代島に始まり、東京市がゴミ処理を統一して行うようになったタイ材(ワイヤー等)中詰砂置換砂砂杭止止水板板鋼管矢板粘土層砂層浚渫土砂等海面20~40m写真3 発展の契機となった「品川コンテナふ頭」(1967年) 図2 粘土層が厚く堆積する沖合における護岸の模式図